毎年、京都に行っている。
といっても、去年からだけど。

それは、以前塾で教えていた生徒がフリーの写真家として
毎年京都で個展をやってるからだ。
と書くとカッコイイけど、
プロではなくて、バイトしながら、展示をたまにやっている。

今年で3回目。

ギャラリーのオーナーと仲良くて、
毎年やらせてもらってるらしい。

1回目は見逃したけど、去年と今年は見に行けた。
小さい三角形のスペースの3階で、
いつも何かを表現したそうにモヤモヤしてる、
そんな展示だった。
けど、去年よりは断絶よかった。

ギャラリーでその子に会って、
ひと言ふた言、話したら、彼女は一人でコンビニに行ってしまった。
いつもそうやって自由だったな、
と一年前を思い出す。

帰りを待つ間、2階の作業部屋で、
お茶を飲んでいた。

そこもおんなじ三角形の部屋。
六畳の四角形を半分に切ったような三角形。

そこで、一人の男の子が書き物をしていた。

見たことあるな、と思ったら、
去年も京都で会ってたのを思い出した。
去年は彼の友達たちとバーベキューをしたんだった。

その彼が真剣に楽譜みたいなのを書いていた。
彼は今回の展示で流すBGMを作った人だった。

バンドやったり、
曲つくったりしてる大学生の彼は、
バンドのために曲を作っていた。

「オリジナルの曲やってんのー?」と僕。

「そうっすね。全然ダメなバンドなんすけどね。」
と彼。

「今年卒業?音楽続けんの?」

「うーん、音楽で食ってければいいすけど、難しいでしょ。」

「ずっと京都にいるの?」

「まだわからへんけど、ニューヨーク行きたいっす」


彼がニューヨークと言ったことに、僕は一瞬返答に困った。

彼はきっと適当に言ったと思う。
けど半分真剣だったかも、と今は思う。

彼とニューヨークの距離がどれくらいなのか、
僕にはわからなかった。

ニューヨークに行くことが、
どれほど遠いのか、わからなかった。
それは物理的な距離じゃなくて、
可能性の距離。

たとえば、僕の周りには、
ニューヨークで活躍してる人もいるし、
ニューヨークを拠点にしてる人もいる。
ニューヨークで頑張って仕事探してる人もいるし、
日本に戻ってきた人もいる。

だから、ニューヨークは近い気がする。

自分は行ったことないけど、
なんだか距離は近いと思う。


人にはそれぞれ「近さ」というのがあると思う。

その土地にどれだけ馴染みがあるのか、
そこにどれだけ知り合いがいるのか、
どれだけ生き抜き方を知っているのか。

それは場所に限らず、
小説家になるには、
小説家に近くならなきゃいけないし、
ビジネスマンになるには、また近くならなきゃいけない。

そのためにコネをつくったり、
本を読んだり、
つながりを持たなきゃいけない。

だから、親が小説家だと、
子も小説家に近くなる。


そうやって、
目標に対して近くなろうとしないと、
絶対にそこには辿り着かない。

いつか誰かが自分を「発見」してくれるんじゃないかな、
なんて思ってても、
そんなことはない。

無人島で旗を振る人しか、
助けてもらえない。


僕は、何かに近くなりたくて、
東京に出てきたんだと思う。

長崎ではあまりにも何もかもが遠すぎた。

一体何に近づきたいのかはまだわからないけれど、
少しでも近寄っていかないと、
何も獲得できない気がした。



京都の彼がニューヨークに近づいていくかはわからないけど、
もはやネタ的にニューヨークと言ったのかもしれないけど、
それくらいニューヨークは京都から遠かった。



東京にいたって、
動かなければすべてが遠い。

遠くにいながら、
遠いことを嘆いていても始まらない。

一歩でもどこかに近づけるように、
一歩を踏み出すしか無いんだと思う。





最近になると、
だいぶ、周りの人達が、
何かに近づいていこうとしなくなった。

安住や安定、諦めや保身に向かう。

それもいいかもしれないけれど、
安住して、死んだ目をしてる人がいっぱいいる。


ニューヨークでも小説家でも、
主婦でも東京でも、
そこに向かおうとする一歩が
きっと人を生きさせるんだと思う。





そんなことを考えているうちに、
ギャラリーにあの子が戻ってきた。

この子は一体どこへ向かっているのだろう。
[PR]
# by shinya_express | 2011-10-02 17:17
3月11日のお昼すぎ、
昼ごはんも食べずに仕事に没頭していた。

土日に待ち構える一年で一番大きなイベントの準備で、
社内は慌しい状況だった。

みな、睡眠時間を削り、疲労を浮かべ、
必死に明日のことを考えていた。



先輩に、次やる作業の相談をしていたときだった、
ふと、小さな揺れが起き、地震かな、とみんなが気づいた。

その小さな揺れはしばらく続き、
突如として、会社のビルは大きく揺れ傾いた。

外へ出ろ!という誰かの叫び声と共に、
みんな、外へ駆け出した。


誰か、中に残っていないか!
と叫ぶ声。

ぐわんぐわんと揺れる電柱。
アスファルトはもはや硬さを失い、
船の上にでもいるような不安定さをもたらした。

電柱につかまっていた僕らに対して、
危ない!と、となりのビルからの叫び声。


こんな不安定な世界でいったい何につかまったらいいのか、
いったい世界はどうなってしまったのか。

そんな不安がみんなの中に生まれた。

ついに、都市直下型地震がきたのか。


ビルは左右に揺れ、世界は垂直を失い、
安物のハリウッド映画の中に入ってしまったような、
そんな感覚が襲った。

そのとき、ほんの少しだけ思った。

世界は日常を失ったのかもしれない。
いままで堅牢に目の前にあった現実は、
儚く脆くフラジャイルに崩れ去り、
今までの日常などなかったかのように、
世界は結局、大きな固い世界に覆われていただけで、
その外には不安定でもろいぶにょぶにょの見知らぬ世界があるということを。


この感覚は、日に日に強くなるものの、
まだこのときは、事態の本当の深刻さなど微塵もわからなかったのだが。




しばらくして、揺れはおさまり、
ビル内にもどると、そこは、もはやいつもの社内ではなかった。

棚は倒れ、食器は砕け、書類や本は床に飛び散っていた。


けれど、みんなまだまだ元気だった。


明日イベントだってのに、これ片付けなきゃいけないのかよーー
と愚痴りながらも、みんなで手分けして、
もとあった場所へと戻しにかかる。

その後、たびたび余震が続き、
何度も外に逃げ出した。

揺れて、逃げて、片付けて、
揺れて、逃げて、片付けて。


なんかこんな地獄がどこかで描かれていたような気がしながらも、
みんな、日常を取り戻そうと着々と、仕事に戻っていった。


明日もあさってもイベント。
搬出もしなきゃいけないし、
資料や素材作り、
仕事は山のようにあった。

そのまま夜になった。



そのとき初めて、みんながテレビと見ることになる。


そこに映っていたのは、
津波に襲われた家々、
火の海となった街並み。

どこの世界の話をしているのかまったくわからなかった。


いま日本はいったいどうなっているのだろう。

みんな、我が目を疑った。


これは、イベントどころではないのではないか。
事の重大さに気付き始めた僕らは、
上の人たちと掛け合い、
明日あさっての予定を整理した。

そもそも帰宅できるのか?
交通網は?
イベント参加者は都内に来れるのか?
いろんなことが話されたけれど、
誰も未来のことなんてわからない。

ひとまず、明日までは今まで通り準備をすることになった。


夜を徹して、仕事をし、
地震どころではない忙しさの中、
土曜を迎えた。

朝からイベント会場へ向かい、
そこで参加者を待った。

その日のイベントは無事に実施され、
参加者も9割くらいは集まっていただいた。

こういう事態だからこそ、
人は集まり、交わしあうことで、
少し日常に戻っていっている実感がした。


しかし、
日曜日のイベントは中止になった。
会場に亀裂が入ったのだった。


「いつもどおり」やろうとするのが無茶だった。
もうそこに、「いつも」はなかったのだった。

何ヶ月もかけて準備してきたものが中止になり、
みんなの脱力感は社内を充満させた。

そしてみんな帰路についた。
僕も帰宅した。
何日ぶりの帰宅だろうか。

帰宅電車は意外と空いていた。
土曜に外出した人は少なかったからかもしれない。

簡単に帰宅し、
自分の部屋に戻ったら、
そこはいつもどおりの自分の部屋だった。

揺れなんてなかったような、
ただ自分のせいで散らかっているだけの、
いつもどおりの一人暮らしの部屋だった。

心配していたぶん、拍子抜けだった。

寝る場所もないくらい、本や食器が倒れているのかと思った
自分が恥ずかしくなった。

日曜は一日中寝ていた。

先週はほとんど寝れなかったし、
イベント準備で疲労困憊だった。

起きると日曜の夕方になっていた。
20時間は寝てたかもしれない。

起きて外に出ても、
みんな元気に活動していた。

ちょっとコンビニの商品は少なかったけれど、
いつもどおりの吉祥寺だった。

明日から、地震からの復帰にとりかかろう、と
夜も眠りについた。

月曜日。

遅刻しそうだったので、
慌てて支度し、
走って、駅に向かった。

いつもどおりの道、
いつもどおりの遅刻、
いつもどおりの眠気、
いつもどおりの空だった。



けれど、
駅につくと、
やはり世界はおかしいままだった。


そこには、
2000人か、3000人か、
人が列をなして、電車を待っていた。
待っていたのかも分からない。
駅の外まで人で溢れかえっていた。

いったいどうしたというのか、と一瞬戸惑ったけれど、
これが地震の現実だった。


電車は動いているものの、
本数が少なすぎて、
いつものようには人を吸い上げることが出来ていなかった。


みんな、日常に戻ろうと頑張っていた。
地震が起きても、
また今日を生きようとしていた。
仕事に向かおうとしていた。

けれど、
やはりここは今までの世界とは違ったのだった。

もう別の地球にいる。

今までの常識は通用せず、
今までのようには生きられない。

日常のままでいては、
非日常に飲み込まれてしまう。

自分の力で生きなければならない。
自分の足で前に進まなければならない。

地震でぐにょぐにょになった地面で、
両の足を突き立てるように、
僕らは立たなきゃいけない、
そんな気がした。



テレビは悲惨な状況を映すことに躍起になる。
かわいそうを演出する。
ネットではホントの情報もウソの情報も溢れかえる。
町は節電で薄暗く、
スーパーに食材は少ない。
実家長崎は平和なまま。
いろんな現実が錯綜する「いま」。


僕らは何を信じ、何に向かうのか。


今までぬくぬくと育ってきた。
戦争も知らず、テロも知らず、危機を知らず、
なよなよと引きこもり、
自分探しに没頭した。

そんな夢のような時代は終わりを告げたのかもしれない。


もっと世界は残酷で、不安定で、信用ならないものなのかもしれない。



じゃあ、いま何をすべきだろう。



援助?募金?ボランティア?



それも大事だけれど、
やっぱり日常を取り戻すべきなんじゃないだろうか。


僕らは非日常の中だけで生きることはできない。

そこに、明日も続いていくという安心感とか
堅牢な世界とか、信頼感とか、
そういったもので自分たちの目の前を固めないといけないと思う。

だから、日常を生きようと努めなきゃいけない。

もちろん、
いつも通りに暖房つけまくったり、
被災者に無関心になったり、
ということではない。

自分がやってきたこと、やり続けることを、
今もやんなきゃいけない。


お昼ごはんの分を募金に回すのではなく、
お昼ごはんも食べて、募金もすればいい。


だから、サラリーマンはデスクに向かい、
研究者は本を読み、
芸術家は絵を描き、
学生は勉強して、
作詞家は詞を書かなきゃいけない。

いまできない人は、たぶん一生できないだろう。

いまの情報に翻弄され、
いましか見えない人は、
これからもずっと狭い人間になる。


自分にできることは、
被災地に行くことじゃない。

日常を取り戻すために、
ちょっとずつ「普通」を回復することだ。



いつも通り、よくいくラーメン屋にいくと、
いつも通りのメニューがそこには並ぶ。
いつも通りの掛け声と共に、いつも通りのラーメンが出てくる。
いつも通りの味に安心感を覚え、いつも通り完食する。
いつも通りの値段に支払いをすませ、
そして帰り際に、「お気をつけて」と。



僕らは、日常を生きる生き物だ。
そこに決まった習慣とかルールとか安心とか信頼とか、
そんなものがないと、
やっぱり生きてはいけない。


だから、日常を生きようと思う。

それがたとえ、いますぐに役に立つことでなくても、
それが震災に役に立つことでなくても、
僕らの日常を取り戻すことにつながるのなら、
それに粛々と向かうことこそ、今必要なことなのだと思う。
[PR]
# by shinya_express | 2011-03-15 15:46
松岡正剛の会社から
宇野常寛の飲み会に行くと
世界が違うような気がしてしまう。
そして帰宅して渡辺真也のテープ起こし。


なかなかよい感じの
社会人スタートなんじゃないかと。



ハイカルチャーと
サブカルチャーと
ポップカルチャーのあわいで
はて、何をしようかな。





本と映画とドラマとアニメと音楽とアートに
触れまくれるようにがんばるばん◎
[PR]
# by shinya_express | 2011-02-24 23:37
お久しぶりです!

いやはや、あけましておめでと◎




随分と更新を怠っていたようです。

その間に、職が決まり、トーフルで合格点を取り、年が変わり、
あれよあれよと2011年1月も終わりに差し掛かりました。



すでに働き始め、職場でのあれこれも次第にわかってきた感じです。
いろいろなことのネーミングが独特な会社なので、
(守破離、感門之盟、仄明書屋、物語三綴など)
まず組織そのものを覚えるのが大変でしたが。。


というわけで、松岡正剛の下で働いております。

このブログに昔からリンクを張っていた人のもとで働けるなんて
改めて夢みたいです。
(うわ、ホントに夢みたい!改めて今思った!)


といっても、彼の事務所ではなくて、
彼がやってる学校のスタッフというのが具体的なポジション。

だけど、事務所・学校・本屋(松丸本舗)が三位一体となってるのが、
彼の組織なので、かなり横断的な感じです。

その中でももちろん最年少で、最底辺なわけで、
雑用全般をこなす日々なのであります。

オレの上となると、30歳を超えるのではないかな。
そもそも新卒なんて取るような会社じゃなくて、
みんな中途みたいです。

バイトから働いた人もいるようですが、
それはこの組織創立当初から働いている人なので、
もう40過ぎ。

かなりアウェーな感じでございます。


え、ゆとり?

とか言われる感じです。



まぁ、けど、みんないい人ばかりで、楽しくやってます。



みんなに共通して言えるのは、仕事第一!

というか、
働く=生きる
という感じかな。

なので、お昼休みも無いし、
終了時間も決まってない。

だから、適当にコンビニでおにぎり買ってきて、
パソコンパチパチしながらお昼を食べ、
仕事が一区切りつくまで、働き続ける。

土日返上もよくあること。

こんなワーカホリックな職場ですが、
なんだか自分に合ってる感じです。

一日中仕事してても飽きないし、
イヤにならないし、
オンオフとかいう感覚ないし、
自分が納得いくまで働き続けるってのは、
とても自分と親和性が高いみたいです。

それは、なによりも、
その組織が向かう方角に、
疑いの余地がないからです。

これが、そこらへんのメーカーなら、
なんでオレはこんなに働いているのだろう
とか自意識に駆られて、
たぶん自殺しちゃうだろうな。
ホントそう思う。

けど、ここには、

働く=学ぶ=松岡に近づく=知を深める

という構図があるからこそ、
いくらでも働ける気がします。



とはいえ、扱う仕事は雑務が多いです。
封筒に切手を貼りまくったり、
印刷しまくったり、
お使いにいったり、
椅子を並べたり。

そんな単純作業ですが、
うっすら分かっていたのですが、
そういったことが得意すぎる自分がいるのが驚きでした。

単純作業をし続けることがイヤにならないというのは、
性格なのか、得なのか損なのか、
ともかくも、全然苦じゃないのでした。

エクセルと10時間格闘しても、
何百枚もハンコを押し続けても、
ひたすら試験監督をやっても、
なんかやれちゃうのでした。

その特性が最大限に活かせているのでした。



なんか勢いで働くことになった場所ですが、
いろんな部分で自分の特性とマッチしていたのです。


本に囲まれ、
スゴイ人がいて、
単純作業が大量にあって、
知性を養えて、
Macがあって、
教育に携わっていて、
働く先にちゃんと未来がある職場です。


たぶんこれ以上に、
自分のやりたかったことと同等なものは
無いんじゃないかと今になって思う次第です。


というわけで、毎日安月給で忙しい日々ですが、
どんどん成長しそうで、ワクワクなわけです。


というところで、
そろそろ長期的な目標でも立てようかと思います。

人はよく、働き始めると、燃え尽き症候群で、
なんで働くんだろう、とか考えちゃって、3年で辞めるそうですが、
オレはそんな仲間入りをせずに、ちょっと目標を立ててみました。


① その職場の一員という肩書き以外のことも頑張る
やはり、「会社員」という一つの肩書きが通用する社会ではないので、
もっと重層的にやっていきたいです。
だから、編集者とかプロデューサーとか
何か別のこともやっていきたいと思います。
アイデンティティを一つに絞る必要などなく、
いろんな自分を持ち合わせればいいわけです。

②趣味をつくる
これは、朝活的なノリです。
お茶か書道やりたいなー!

③本気で松岡を総括する
これが超長期的計画。
松岡は66歳。もはや人生折り返りております。
すごい活動、すごい人生、すごい能力を持ち合わせていながら、
彼の思想や活動が何かの流れの中に包括されたことはありません。

様々な知の巨人たちと対話してきた人間でありながら、
マルクス主義から距離を置き、
アカデミズムからも距離を置き、
ニューアカからも距離を置き、
権威から距離を置いた彼は、
大きな物語の中で語るのが困難な生き方を選びました。

だからこそ、彼を説明するのは困難です。

いち編集者、いち研究所所長として頑なに本を読んできた人間を、
誰かがいつか総括しなきゃいけないと思うわけです。


そこで、

それを、担ってやろうじゃないか、と思った次第です


結構偉そうなことを言ってるのですが、
やはり次の世代の人間として、
外と中から彼を見る機会に恵まれた身として、
あと何十年かかるかわからないまでも、
彼を包括する必要があるんじゃないか、
と思うわけです。


そのためにも、
彼に負けないくらい本に触れ、編集を究めないと、
そんなことはできないわけなので、
やばっ、がんばんなきゃ、
と思ったわけです。

①、②とは比べものにならないくらい大変な作業なのですが、
③を長期的に進めていこうかと思います。

映画を語るときに、それをある種のコンテクストに落としこむことで、
より深く、より趣き深く、より丹念に語ることができるように、
なんらかのコンテクストに松岡正剛を落とし込むことで、
より説得力のある物語を紡ぐことができると思うわけです。
そのためにも日々、修行していくしかないな、と決意したわけです。

そもそも彼の著作と千夜千冊を全部読破せねばスタート地点にも立てないわけで、
彼が昔やってた雑誌『遊』を探してこないとダメなわけで、
ニューアカ、現代思想の流れを把握しないといけないわけで、
こりゃ、想像するだけで大変になりそうです。


まぁけど、これくらい壮大なテーマでもなければ、
現世に用がなくなってしまい、早くアガリを手にしちゃうので、
この世をエンジョイするためにも、
頑張っていこうと決めたのでした。




という2011年以降の目標をここに掲げまっす!




ひとまず、朝強くなるのが当初の目標。。。
[PR]
# by shinya_express | 2011-01-24 22:11
たとえば、自分が1968年に青春時代を生きているとしたら、
いったいどんな人生を歩むことになるのだろうか。


時代は60年代、
戦後から20年経ち、
日本は高度経済成長の真っ只中で、
東京オリンピックは開催され、
東西冷戦は最高レベルにまで緊張化し、
ベトナム戦争は泥沼化、
日米安保は締結され、
国内は学生運動が激化、
ロックが世界を救うのか、
毛沢東が世界を救うのか、
そんな時代。



そんな時代を、もし自分が生きていたならば、
いったい何を目指しただろうか。




そんな時代、1968年の
京都の高校生と朝鮮学校の学生の
ケンカや恋愛や、
つながりやつながらなさを描いたのが本作。




そこには、
ケンカに明け暮れる人がいて、
フォークを歌う人がいて、
共産主義に染まっていきそうな人がいて、
そして、ヒッピーへと邁進する人がいる。


それぞれが、それぞれの思いで突き進む。

けれど、現代の若者のようにみんながそれぞれへ突き進んで
自分たちの物語を語っていくことはない。

この時代は、どう足掻いても、
人々の物語は、
歴史やイデオロギーに回収されてしまう時代のように映る。

どれだけそれぞれが青春を謳歌しようとも、
そのすぐそばには戦争があり、差別があり、貧困がある。

どう足掻こうとも、
それぞれの思いは、「政治的」にならざるを得ないように見えた。


この映画は、純粋に青春のぶつかり合い(「パッチギ」)を描いているけれども、
その根底には常に、政治の時代だった色合いが付きまとう。

第二次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、
日韓問題、安保問題、部落問題、
そんな問題たちが付きまとってしまう。


だから、純粋にそれぞれの思いを美しく描くことができない。


どこまでいっても、政治的なのである。

祖国を思う朝鮮学校の学生は、
それがすなわち東側の論理へ向かい、
先生が毛沢東を尊敬するのを見ていた学生は、
いつの間にか安保闘争へと進んでいく。
フォークを歌う学生は、結局反戦の論理へと向かってしまう。

直接的には、それらを描いてはいないけれど、
そんな「匂い」を感じてしまうのが、
今を生きるぼくらなのかもしれない。



ぼくらに、そんな論理は無い。


もはやイデオロギーもない、政治は無関係、
そんな時代には、それぞれはそれぞれの島宇宙を形成し、
そこで孤立して、生きて行くことができる、
もとい、生きて行くしか無い。



だからこそ、ある人は60年代を憧れたりもする。

何か向かう先があり、
反発する先があった時代を夢想したりする。

そんな人は、60年代にタイムスリップしたら、たぶん
ロックで反戦を主張したり、
安保闘争を先導したりするようになるのだろう。



今は何も向かう先の無い時代。


それは、ある意味「自由」なのかもしれない。
それこそヒッピーが本当に求めた時代なのかもしれない。
けど、本当にみんな自由に生きているかというと、全くそんなことはない。



何も向かう先が無い、なんでもやっていい、
その自由さが不自由すぎて、引きこもるしかなくなる。



人間ってホントに身勝手だな、と一笑に付すのは簡単で、
60年代を必死に生きた人たちが今笑うのは、別にいいと思う。


けど、ぼくらのように実際に今を若者として生きている人々は、
そんな自由で不自由な時代を生きなければならない。

自殺が道徳的に許可されたら、
たぶんものすごく多くの人が死ぬだろう。

なんとかこの世に繋がっている人が多い今、
なんとか寄る辺を探し求めるしか無い。



だから、『パッチギ!』の世界を憧れる人もいるだろうし、
何かに対抗しなきゃと言う人もいるだろう。

けど、そんな時代じゃない。



だったら、どうしたらいいのだろう、
とぼくなんかは戸惑ってしまう。






パッチギ! (特別価格版) [DVD]

ハピネット・ピクチャーズ

スコア:


[PR]
# by shinya_express | 2010-11-27 01:33
アメリカは病んでいた。

何かに取り憑かれ、
何かに苦しめられ、
行き詰まりをみせていた。

何がそうさせるのか分からずに、
ただがむしゃらに「成功」に向かっていく、
そんなアメリカンドリームだけが残存し、
今なお、追い立てられるように先へ先へ行こうとする。

それはまるで、パラノイアのように写ってしまう。

パラノイア、つまり妄想を抱く人々のこと。
自分を特殊な人間であると信じるとか、
隣人に攻撃を受けているとか、思ってしまう人々。

そんなパラノイア状態は、
中流階級の家にまで侵食していた、
というのが、この作品だと思う。


アッパーミドルのサラリーマン、レスターは、
妻、娘の三人暮らし。

一見普通の一家であるが、
もはや崩壊の兆しを迎えていた。


そして、3人のさらなる登場人物が現れる。

金髪美少女、変わった高校生男子、そして不動産キングの男性である。


それら3人に、一家3人はそれぞれが惹かれていく。


金髪美女と、冴えない中年男、
常にビデオを回し続ける変な高校生と、思春期の娘、
そして不動産キングと、仕事がうまくいなかい妻。


彼らは彼らに翻弄される。



夫レスターは、筋トレを始め、
娘ジェーンは、自分を撮り続ける男と一緒にいようとし、
妻キャロリンは、不動産キングと寝る。



まさに、それぞれが、アメリカが抱えるパラノイアを象徴する。



筋トレが象徴するマッチョイズム、
ビデオに映されることが象徴する自尊心、
そして、不動産キングが象徴する経済的成功。


この映画は、これらのパラノイアこそを、
「アメリカン・ビューティー」と皮肉ったのだった。




筋肉隆々のすばらしさ、
自分は特別だと思い込む自意識のすばらしさ、
金銭がもたらす繁栄のすばらしさ、
これらを「ビューティー」とみなすのが、
「アメリカ」なのである。

そして、それらに翻弄され、偏執的になっているのが、
いまのアメリカなのだと、この作品は語っているように見える。



1999年の作品ではあるが、
これらの価値観は廃れただろうか。


それは、今のアメリカを見てみればわかるだろう。





アメリカン・ビューティー [DVD]

ソニー・ピクチャーズ

スコア:


[PR]
# by shinya_express | 2010-11-24 23:37
フランスの植民地アルジェリアに、カスパという町があった。
そこは、無法地帯となっており、犯罪者の巣窟で、警察も容易に手出しできなかった。


そこで、暮らす一人の男ぺぺ・ル・モコの物語。

ぺぺは、パリ生まれの前科15犯、強奪33件、
銀行強盗2件でパリ警視庁から追われるギャング。


そんな彼を捕らえるためにフランス警察は躍起となる。

一方、カスパの地元刑事スリマンは、ぺぺを黙認しているのだが、
裏では、フランス警察と手をむすび、ぺぺを追い込んでいこうとする。


そこに現れたのが旅行中のパリジェンヌ・ギャビーだった。

その美しさは、身にまとう宝石も見劣りするほどだった。

彼女にすぐさま心酔するぺぺ。


その恋心に漬け込む地元警察サリマンであったが、
ぺぺは、サリマンの計略を知る。

ぺぺは最後ギャビーに一目会うために、
フランス行きの船が出る波止場へ向かった。
しかも、そこに警察の待ち伏せがあることを知りながら。


そして、最後に描かれる悲しきラスト。






この物語の原題は「ぺぺ・ル・モコ」であるが、邦題は「望郷」。

まさに、ペペが恋焦がれる故郷パリを思う物語である。


そして、その象徴が、パリジェンヌ・ギャビーであった。



異邦人溢れる田舎ではなく、ましてやそこで出会う女性ではなく、
パリという夢の街、そしてそこからやってきたパリジェンヌに、ペペは惹かれる。

そこに自分を同一視もする。

ギャビーがいう、「We're neighbors」という言葉に、
ペペは喜びを感じる。


そして、後半、昔のパリの時代を思い出す太った女性の逸話が描かれる。

かつて美しいパリジェンヌで歌姫だったその女性は、
涙を流しながら、蓄音機から流れるパリの音楽に耳を傾ける。

その望郷の念こそが、この映画全体に奥行きを与える。

しかも、この映画でパリの映像は存在しない。
けれど、見ている観客はパリの美しさを思い描き、
見たこともない街への望郷の念を共有する。


だからこそ、最後にペペは、リスクを犯しても、
ギャビーを追いかけていく。

そして波止場で、「ギャビー」と叫ぶ。

それが、汽笛にかき消される演出こそが、
ペペの思いがギャビーに、そしてパリに届かないことを表していた。






望郷 [DVD] FRT-171

ファーストトレーディング

スコア:


[PR]
# by shinya_express | 2010-11-24 01:30

自由ってのものを感じるのは極めて難しいのだと思う。

刑務所の中にいても感じれるときはあるだろうし、
外に出ても感じれ無いときはある。


それが、たとえ民主主義国家でも、資本主義国家でも、法治国家でも。



これが自由なんだな、と人が感じるのはどんなときだろうか。



たとえば、日本では信教も思想も所有も職も自由に選択できる。



すべての国民は、それに与ってるわけだけど、
いま、自由を感じているのだろうか。



人とは傲慢なもので、与えられすぎると、
足りないものばかりに目を向ける。


学校の課題に不自由さを感じ、
仕事の辛さに不自由さを感じ、
天気が悪いのに不自由さを感じ、
スーパーの品揃えに不自由さを感じる。


けれど、
学校に通える自由や
働ける自由、
天気が悪くとも外出できる自由、
商品を買う自由
といったものは忘れてしまう。

もちろん、どこにも不自由はあるし、
誰もがそれにグチをこぼす。

けれど、
いまある膨大な自由を感じることって、
たまにはしたほうがいいと思う。


それは、刑務所の中にいながら
屋根の上でビールを飲むことような、
モーツァルトを聞くことような、
そして、本を読むことのような、
そんな一瞬の自由がこの映画では描かれる。

その一方で、
刑務所の外に出ても、
自由や希望がないという現実にも目を向けさせてくれる。


主人公はたぶん、自由が何かってのを知っていた。
だからこそ、無実の罪であっても、
刑務所の中で希望を失わずに生きていけた。


今ある自由に感謝しなさい、
なんていう啓発的文句に価値はないけれど、
この映画を見て、
たまに垣間見える自由ってものを感じたらいいと思う。
[PR]
# by shinya_express | 2010-11-22 23:40

You complete me.

と、ジョーカーは、バットマンに言う。


ジョーカーは、自分自身が、
バットマンがいてこその存在であることに自覚的となった。

それゆえ、バットマンが強くなればなるほど、ジョーカーは強くなる。
善が大きければ大きいほど、悪も大きくなる。

しかも、悪は常に善の先を行く。
ヒーローは結局、敵の後追いしかできない。

そんなヒーローの無力感をバットマンは実感し始める。

悪は拡大し、感染し、肥大する。
けれど、善の脆さ、不自由さは変わらない。

そんな非対称に、
人々はバットマンをスケープゴートにしようとする。

バットマンさえいなければ、という憎悪の念が増してゆく。


そんな善と悪の対立の終着点を、この映画は描こうとする。


『バットマン・ビギンズ』から続くクリストファー・ノーラン版バットマンシリーズは、
今作を2作目として、計3部作になると言われている。


今作で最後にバットマンが選んだ選択は、
この先どこへ向かうのか。


もはや、この世界はバットマンを本当に必要としていないのだろうか。

それとも、悪を背負う誰かによって逆説的に、人々は団結することになるのだろうか。





その結末を知るためにも、次回作を待つしか無いらしい。


ダークナイト [Blu-ray]

ワーナー・ホーム・ビデオ

スコア:


[PR]
# by shinya_express | 2010-11-21 00:06

物語を物語るために映画は作られて、その物語を物語られるために映画を観る。



そんな当たり前のことを、ぶち破るのが、
『リンダリンダリンダ』なのかもしれない。

リンダリンダリンダ [DVD]

バップ

スコア:






軽音部の女子高生たちが、
文化祭のためにメンバーを募って、
ブルーハーツのコピバンをやる、という話。

それ以上でもなく、それ以下でもないこの映画は、
もはや他に語ることがない作品だと思う。

そして、それがすなわちこの作品を駄作だという意味にはならずに、
もはや、革命的作品であると思ってしまうところに、この作品の魅力がある。




私たちは、いままであまりに多くの物語を享受してきた。

貧しい子供がお金持ちになる話、
弱い人がヒーローになる話、
男の子が女の子に恋する話、
テロリストを駆逐する話、
魔法が飛び交う話。


そんなあらゆる物語を物語ってきた私たちは、
この世界にも物語を導入してきた。

資本主義という物語、
民主主義という物語、
東洋と西洋という物語、
男女平等という物語、
平和という物語。

いろんなおっきな物語が生まれ、
それらが私たちをここまで誘(いざな)ってきた。

人は何を信じればいいのか、と問われたら、
お金を信じればいい、
神を信じればいい、
平等であることを信じればいい、
愛を信じればいい、

そうやって、ある価値基準を標榜し、
そこに依拠して生きてきた。



けれど、



もはや、そんなことを信じられない時代に突入した。


本当にテロリストは悪で、国家は善なのか、
お金は善なのか、神はいるのか、
愛することは報われることなのか。

そんな疑問で溢れかえった私たちの世界では、
もはやおっきな物語を物語ることができなくなった。


じゃあ、何にすがればいいのか。


自分は、お金しか信じない、
自分は、白馬に乗った王子様を待ち続ける、
自分は、神を信じる。

そうやって、人それぞれがそれぞれの島宇宙を形成し、
自分の信じる物だけに固執するような世界になってしまった。


おっきくなくて、ちっちゃな物語をそれぞれが物語る時代。




おっきな物語があったときは、
それを信望する人とそれに反発する人に分かれていた。

資本主義と共産主義のような、
国家と反権力のような、
メジャーとインディーのような。



今あるメインストリームに乗れない人々の間で、
生まれたのが、ブルーハーツだった。

ドブネズミみたいに美しくなることを歌ったり、
どこまでもトレインで走りぬけようとしたり、
終わらない歌を歌い続けたり、
青空のもとで平等を歌ったりした。

そんな反発が、若者の反響を呼び、
ブルーハーツは、憧れの存在へと進んでいったのだった。



だけれど、それは、もはや過去の話となった。


だって、
いま、何に反発するのだろうか。
何を悪だとみなすのだろうか。
何を叫べというのだろうか。


そんな空虚な善や正義を叫ぶ時代は終わった。




映画『リンダリンダリンダ』で、
女子高生が歌う「リンダリンダ」の歌詞は、
もはや、その時代性とともに、空虚なものとして飛んでいく。


そこに残ったのは、歌う楽しさであり、今を楽しむことでしかなくなった。




それこそがまさに「日常」なのである。




何かに反発したり、何かに反抗したりするんじゃなくて、
いまある日常こそが、楽しいんじゃないか、
ここには物語なんかないけれど、
日常があるから、いいじゃないか、
そんなことを訴えかけてくる。


ある人は、「終わりなき日常」と表現し、
この果てしない日常を否定的に捉えた。


だがしかし、本当に日常はつまらない物なのだろうか。



映画の中で彼女らが歌う「終わらない歌」は、
もはや終わらない日常を賛美しているように映る。

それは、ブルーハーツが、
「クソッタレの世界のために」歌った歌とは違って、
この終わらない美しい日常の世界のために歌っているように思えた。
[PR]
# by shinya_express | 2010-11-19 23:07