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宮台真司×内海信彦


先日行って来た対談ですが、
宮台真司がブログ上で、
ツイッターでの発言をまとめてるので、転載。

「非日常の中に浮かんでいる日常」対「日常に登録されている非日常」ツイートまとめ - MIYADAI.com Blog



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@TT65536 さんによる紹介に導かれる形で、昨日の内海信彦(画家・美学校講師) さんとの超満員トークイベントについてツイートしましたが、それをマトメました



miyadai
8:32am, May 05 from HootSuite
RT @TT65536: 宮台さんの子供時代「70年代」は、まだ「日常」はカンタンに壊れ「世界」が見えていた。今の中高生は相当キツいだろうなと。「社会」はしょせん作られたもので、「世界」はその外にあるけど、「日常社会」はどこまでも広がっている。

miyadai
8:32am, May 05 from HootSuite
RT @TT65536: また、壊れた芸術家の撮った「日常の風景」が「確かに日常だけど、非日常だった」という(ゴッホ的)お話も。密度が濃かったが、宮台氏の語りたかったことは「どうせウソである「システムの一部」じゃない「世界」に直に接するアート」を作れ、という激励だったんだと思う。

miyadai
8:33am, May 05 from HootSuite
RT @TT65536: 質疑応答で。女子大生「私ずっと、このキャラ(不思議ちゃん系)で来たけど、大学生になって、このキャラはKYだって言われて…」宮台「オレだってKY承知でやってるよ。批判されてるよー(笑)やめるのはつまらなくて、もっとやる。わざとやる、ってやってるよ(笑)」…

miyadai
8:33am, May 05 from HootSuite
RT @TT65536: …近代は「非日常」もまた「日常の一部」として、システム化(日常化)されている。それが強固な時代には、アートが「リラクゼーション」になる。しかし「世界体験(非日常=社会の外)」を呼び、元の自分に戻れなくするのがアートである。

miyadai
8:39am, May 05 from HootSuite
昨日は、アバンギャルドな画家で美学校講師であられる内海信彦さんと、神田神保町の三省堂の真裏にある文房堂ギャラリー4Fとトークしました。フロアが隅から隅まで立見で埋め尽くされ、ギャラリーによると歴代動員新記録だったそうです。二百人はいた。八十人くらいが打ち上げに。十五人が二次会に。

miyadai
8:50am, May 05 from HootSuite
会場には鈴木邦男さんや白虎社の大須賀勇さんも来ておられ、鈴木さんは打ち上げにまで参加してくださいました。内田輝(サックスプレーヤー)P.A.N.A project(サウンドクリエーター) のアバンギャルド・ジャズも、会場の雰囲気を弁えて、アンビエントの味付けもあるノイズで、最高!

miyadai
8:54am, May 05 from HootSuite
トークの前座として行われた(?!)中島晴矢のパフォーマンスで、チンコを見て目を丸くしていた少女たちと、完全に見慣れている僕との間の「落差」を前に、いろいろ考えた。なぜ、ロバート・フリップが言ったように、1968年と1969年の二年間には「恩寵の扉」が開き、神の光が降り注いだのか?

miyadai
8:58am, May 05 from HootSuite
その当時「非日常」の中に「日常」が浮かんでいた。〈世界〉の中に〈社会〉が浮かんでいた。だからヒョンなことで「日常」は「ウソ日常」として、「社会」は「ウソ社会」としての相貌を表した。ヒョンなことを提供するのがアートだった。それが「ウソ日常」「ウソ社会」と分かってしまったら戻れない。

miyadai
9:05am, May 05 from HootSuite
別の言い方をすると、「日常」や「社会」から成り立つ閉鎖系カプセルには、容易に亀裂が入り、亀裂に手を伸ばすことを通じ、僕たちは〈世界〉に接触できた。フリップの言う「恩寵の扉」とはそういうこと。今は「非日常」の中に「日常」が浮かぶどころか逆に、「日常」の中に「非日常」が登録されてる。

miyadai
9:12am, May 05 from HootSuite
:映画論二冊で述べたように、先進各国での急速な戦後復興&郊外化は、ポップカルチャーに刻印されるように「薔薇色の夢」を伴った分、1960年代半ばに到る頃には広範な「こんなハズじゃなかった感」をもたらしていた。この不全感が、頓挫した夢に変わる全体性(ここではないどこか)の希求を与えた

miyadai
9:16am, May 05 from HootSuite
映画論二冊ではそう書いてきたが、トークで述べたように、単に社会変化の速さもある。敗戦後から1960年代半ば(オリンピック)まで20年。この20年の変化は余りに激烈だ。「夢」を抱くと否とにかかわらず、日常や社会に疎隔感を抱いて当たり前。そう。僕はここにこうしていたのかという感覚だ。

miyadai
9:19am, May 05 from HootSuite
打ち上げのとき、僕の左横には16歳。右横には15歳と16歳の女子高生が座った。95年の震災もオウムも知らない。援交という言葉も知らないコがいた。僕「生まれてから社会に何かスゴイことが起こったっていう経験ある?」。女A「9.11かな」。女B「でも別の国だし他人事じゃん」。僕「…」。

miyadai
9:23am, May 05 from HootSuite
〈世界〉を告げ知らせることで〈社会〉を「今まで通りには」生きられなくする機能がアートだとすると、文学における受容理論に寄り添う形になるが、何かがアートであるか否かは--〈世界〉を告げ知らせるか否かは--受容文脈(社会的文脈)次第だということになる。僕の10代と今の10代の落差。

miyadai
9:28am, May 05 from HootSuite
トークでは微妙な問題を幾つか話した。(1)〈世界〉の告げ知らせは「作品」「表現」を経由する必要がない。前衛やシュルレアリストが作品や表現といった人称性にこだわる点、ロジェ・カイヨワが述べたように「モダンアートの自明性」にアート界が埋没していないか。僕らにとってはどーでもいいのに。

miyadai
9:31am, May 05 from HootSuite
(2)これもカイヨワが述べたことだが、〈世界〉からの告げ知らせを、「見えないものが見えるようになる」という19世紀的な「潜在性の思考」に引き寄せがちではないか。「植物図鑑」以降の中平卓馬がそうだったように、目の前の日常風景が「そのまま」圧倒的力を以て脳髄を打ち砕くゴッホ的経験は?

miyadai
9:36am, May 05 from HootSuite
(3)非日常を日常として次々と登録する日常において、影踏みのように非日常を追いかける営みは、それ自身、ポストモダンどころかモダンの運動そのものなのではないか。日常と非日常という図柄を完全に放棄した上で〈社会〉と〈世界〉を考えるべきではないか。そこで僕が参考にするのが人形劇の世界。

miyadai
9:44am, May 05 from HootSuite
江戸糸操人形結城座の(現在アセファルの)結城一糸が二つのことを言った。第一。古典劇は反復だ。だがそれを支える「闇の力」が枯渇してくる。枯渇する力を備給すべくアバンギャルド劇をやる。リスキーだがうまくすると「闇の力」が復活する。「闇の力」は「実数の間」ならざる「虚数の間」を与える。

miyadai
9:50am, May 05 from HootSuite
第二。アバンギャルド劇がリスキーというのは、5回の連続公演で1回しか成功しなかったりすること。だがそのことを見極める「闇の力」リテラシーを持つ観客が数百人に一人であること。僕はそれを見極められるらしい。以前万人が褒める公演を、僕一人が駄目出ししたら、長文の手紙をいただいた。

miyadai
9:54am, May 05 from HootSuite
いわく、完全に失敗したことが分かっている芝居を、万人に褒められることほどツライことはない。僕から「これでは駄目だと思う」と伝えられたとき、実は本当に嬉しかったのだと。僕が思うに、このことはいろんなことを示唆する。⒜闇の力は見えないものではなく、見えるものに見える力として宿る亊。

miyadai
9:57am, May 05 from HootSuite
⒝しかし多くの人には見えないがゆえに、多くの人に見える範囲で芝居を作らねばならず、自分自身や闇の力リテラシーのある人を裏切る結果になりがちなこと。⒞多くの人には彼らの見える範囲で愉しんで貰い、闇の力リテラシーのある人には別次元を愉しんで貰う、それがアバンギャルド劇ならざる古典劇。

miyadai
9:59am, May 05 from HootSuite
やはりカイヨワがブルドンらシュルレアリストを批判したのが、〈世界〉の訪れを神秘的なものと見る通俗傾向。RT @wamiho: 宮台さんがアートについてツイート。日本で作家性とかいうとこういうアーティストに降りてきたものを神秘的なものとして扱いがちな気が。RT @miyadai …

miyadai
10:04am, May 05 from HootSuite
そこには、ユングが喝破したように、神秘体験は、神秘現象の存在を指し示すどころか、〈世界体験〉の1フェイズに過ぎないとの見做しがある。むろんそうした見做しも〈世界体験〉で、我々は〈世界体験〉の外には出られないが、たかだか個人の神秘体験にこだわるが如き主観主義は克服されねばならない…

miyadai
10:05am, May 05 from HootSuite
素晴しき纏め。RT @TT65536: 宮台先生のツイートを見ながら。昔は「非日常の中に、日常が浮かんでいた」から、そのことに気づかせる「アート」が意味を持った。今は「日常の中に、非日常が登録されている」つまり「時々行って帰るもの」になり、アートも「日常の一部」に吸収されている。

miyadai
10:10am, May 05 from HootSuite
類似への気づきの連鎖によって〈世界〉は確かにそうなっていると一瞬の気づきに到る(一瞬後にはどうなっていると思ったのか定かでなくなる)という、人称性に還元できない「全体性への気づき」を、ベンヤミンはアレゴリーと読んだが、同時代に仕事をしているカイヨワ(やや年少)と共鳴している。

ここで次のような質問&コメントが
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chimumu
榎本です。宮台さんの主張は、蓮實の「説話論的な磁場」、物語はかって知っている者が知らない者に向かって特権的に語りえたのに、いまや、誰もが知っていることを確認し合うために物語り、物語を通して知っているものしか知ろうとしない状況になった、ということと関係あり? RT @miyadai

chimumu
「非日常の中に日常が浮かんでいる」という感覚はラテンアメリカ文学などに顕著に表現されているような気がしますね。 RT @miyadai
about 6 hours ago ついっぷるから
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miyadai
10:20am, May 05 from HootSuite
蓮實の「説話論的な磁場」は僕の概念系では「〈世界体験〉の構造」に相当。蓮實の「物語」は「〈世界〉はこうなっているという主張」に相当。「〈世界〉はこうだという主張」として破綻していても「〈世界体験〉の構造」を掬い上げたものがあるのに、それに鈍感化しつつあります。@chimumu さん

miyadai
10:28am, May 05 from HootSuite
いや榎本さんと呼びましょう。おはようございます。『映芸』読みました。かつての討論を思い出しました。続けますね。「知っている者が語る」とは、「〈世界体験〉の反復される構造を熟知した者がテオリア的観点を保持したまま〈世界〉はこうだという物語を語る」に当たります。

miyadai
10:29am, May 05 from HootSuite
:榎本さんの仰言るのは、「〈世界体験〉の反復される構造に無知なまま口角泡を飛ばして〈世界〉はこうなってるんだぞという誰もが知っている話を反復する」という事態です。レイヤーがややずれるのですが確認すると、表層=説話論的磁場=〈世界体験〉の反復構造。深層=物語=〈世界〉についての主張。

miyadai
10:33am, May 05 from HootSuite
とすれば古典人形劇こそ〈世界体験〉の反復を逆利用して〈世界〉の訪れを導く営みです。RT @chimumu: そうです! RT @miyadai: 榎本さんの仰言るのは、「〈世界体験〉の反復される構造に無知なまま口角泡を飛ばして〈世界〉はこうなってるんだぞという誰もが知っている話…

miyadai
10:39am, May 05 from HootSuite
あっ。RT @syuukansyounen: 俺も昨日の宮台さんと内海さんのトークイベントを観に行った、宮台さん空手か柔道やってたからムキムキなんだと思っていたらお腹が出てらっしゃった。

miyadai
2:47pm, May 05 from HootSuite
家族一緒に世田谷公園にいって汽車ぽっぽに二回乗り、ファンゴでターキーサンドとバジルチキンサンドを食べ、その後は子供の広場公園に行って、例の不思議な遊具で遊んで、汗だらけになって帰ってきました(-。-;)。昨日、夜遅くまで二次会カラオケに付き合ったせいで、のどの調子がヘンです。

miyadai
2:56pm, May 05 from HootSuite
そして、死を意識しました。久しぶりに。娘たちが僕と同じ齢になる頃、僕は生きていない。それはいったい、どういうことなのだろう。その頃、娘たちは、僕について何を覚えているのだろう。僕はいま、こんなところで、何をしているのだろう…。

miyadai
3:09pm, May 05 from HootSuite
ありがとう。僕は死を怖いと思った記憶はないし、暗い場所を怖いと思うこともないのですが、明るい陽の光の下に出ると死を意識します。クセみたいなものです。RT @Atomium2011: 宮台さん。死を意識できるということは生きてるってことですよ。存分に死を意識しましょう。( ^^)

miyadai
3:15pm, May 05 from HootSuite
自分が若い頃から南の国々を旅行し、今も沖縄から離れられないのは、そのせいではないかと思います。沖縄でもネットウヨク(熱湯浴)のようなことがあると忘れていますが、死を意識するために沖縄に通い続けてきたことも思い出しました。僕は北ではなく南に逃げる種族です。ヤクザは南に、政治犯は北に。

miyadai
3:19pm, May 05 from HootSuite
@nanbashura さんのユングについての素晴らしい説明を読んでいたら、娘たちと一緒にいたとき、遊具で遊びながらずっと死を意識していたことを思い出したのです。妻との新婚旅行で波照間島の海辺に座っていたときにもとてもよく似た意識状態になりました。不安とは全く異なる平穏な状態です。

miyadai
3:35pm, May 05 from HootSuite
それはユング的な意味で蓋然的に反復可能です。RT @chimumu: なるほど。勉強します。僕にはその、〈世界〉の訪れを導く営み、そのものがある程度反復可能なのかということが最近気になっているのです。RT @miyadai: とすれば古典人形劇こそ〈世界体験〉の反復を逆利用して…

by shinya_express | 2010-05-21 11:35