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【映画】『リンダリンダリンダ』の普通さ


物語を物語るために映画は作られて、その物語を物語られるために映画を観る。



そんな当たり前のことを、ぶち破るのが、
『リンダリンダリンダ』なのかもしれない。

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軽音部の女子高生たちが、
文化祭のためにメンバーを募って、
ブルーハーツのコピバンをやる、という話。

それ以上でもなく、それ以下でもないこの映画は、
もはや他に語ることがない作品だと思う。

そして、それがすなわちこの作品を駄作だという意味にはならずに、
もはや、革命的作品であると思ってしまうところに、この作品の魅力がある。




私たちは、いままであまりに多くの物語を享受してきた。

貧しい子供がお金持ちになる話、
弱い人がヒーローになる話、
男の子が女の子に恋する話、
テロリストを駆逐する話、
魔法が飛び交う話。


そんなあらゆる物語を物語ってきた私たちは、
この世界にも物語を導入してきた。

資本主義という物語、
民主主義という物語、
東洋と西洋という物語、
男女平等という物語、
平和という物語。

いろんなおっきな物語が生まれ、
それらが私たちをここまで誘(いざな)ってきた。

人は何を信じればいいのか、と問われたら、
お金を信じればいい、
神を信じればいい、
平等であることを信じればいい、
愛を信じればいい、

そうやって、ある価値基準を標榜し、
そこに依拠して生きてきた。



けれど、



もはや、そんなことを信じられない時代に突入した。


本当にテロリストは悪で、国家は善なのか、
お金は善なのか、神はいるのか、
愛することは報われることなのか。

そんな疑問で溢れかえった私たちの世界では、
もはやおっきな物語を物語ることができなくなった。


じゃあ、何にすがればいいのか。


自分は、お金しか信じない、
自分は、白馬に乗った王子様を待ち続ける、
自分は、神を信じる。

そうやって、人それぞれがそれぞれの島宇宙を形成し、
自分の信じる物だけに固執するような世界になってしまった。


おっきくなくて、ちっちゃな物語をそれぞれが物語る時代。




おっきな物語があったときは、
それを信望する人とそれに反発する人に分かれていた。

資本主義と共産主義のような、
国家と反権力のような、
メジャーとインディーのような。



今あるメインストリームに乗れない人々の間で、
生まれたのが、ブルーハーツだった。

ドブネズミみたいに美しくなることを歌ったり、
どこまでもトレインで走りぬけようとしたり、
終わらない歌を歌い続けたり、
青空のもとで平等を歌ったりした。

そんな反発が、若者の反響を呼び、
ブルーハーツは、憧れの存在へと進んでいったのだった。



だけれど、それは、もはや過去の話となった。


だって、
いま、何に反発するのだろうか。
何を悪だとみなすのだろうか。
何を叫べというのだろうか。


そんな空虚な善や正義を叫ぶ時代は終わった。




映画『リンダリンダリンダ』で、
女子高生が歌う「リンダリンダ」の歌詞は、
もはや、その時代性とともに、空虚なものとして飛んでいく。


そこに残ったのは、歌う楽しさであり、今を楽しむことでしかなくなった。




それこそがまさに「日常」なのである。




何かに反発したり、何かに反抗したりするんじゃなくて、
いまある日常こそが、楽しいんじゃないか、
ここには物語なんかないけれど、
日常があるから、いいじゃないか、
そんなことを訴えかけてくる。


ある人は、「終わりなき日常」と表現し、
この果てしない日常を否定的に捉えた。


だがしかし、本当に日常はつまらない物なのだろうか。



映画の中で彼女らが歌う「終わらない歌」は、
もはや終わらない日常を賛美しているように映る。

それは、ブルーハーツが、
「クソッタレの世界のために」歌った歌とは違って、
この終わらない美しい日常の世界のために歌っているように思えた。
by shinya_express | 2010-11-19 23:07