最後の、オードリー・ヘプバーン演じるアン王女の表情が、全てを物語る。


たった1日のことだった。


アン王女が公務に嫌気がさし、
外の生活を少しでも味わってみたいと
大使館を抜け出してから、そして、戻ってくるまで。


たった1日の間に、アン王女は成長を果たす。


世界を知り、人を知り、そして、自分を知る。


アン王女が、街をさまよい出会うのが、
新聞記者のジョーだった。

彼は、アン王女を王女だと認識できずに、
ぞんざいに扱ってしまうのだが、
彼のアパートまで無理やりついていったアンは、
そのままそこで眠り込んでしまう。

翌朝、ジョーは、自分の新聞社を訪れ、
アン王女が病気になったという報道を聞き、
その時初めて、自分の部屋にいるのがアン王女その人だということに気付く。

ジョーは、新聞記者として、このスクープを逃さないために、
アン王女の独占取材を取ることに躍起になる。

ジョーは、アン王女に自分が新聞記者であることを隠し、
アン王女は、自分が王女であることを隠す。

お互いの秘密が、この映画に常につきまとう。

その後、帰宅しようとするアンであったが、
ジョーの口車に乗り、ローマを観光することになる。

その後のローマ観光シーンが、この映画の有名な場面として
多くの人の印象に残っていることだろう。

そのなかでも、
真実の口の場面を見たことない人はいないだろう。

多くのテレビ番組でも放送され、
イタリア特集には欠かせない映像である。

がしかし、この映画のキモである、
「お互いがお互いに秘密を持っている」
という事実抜きに、あの場面を見ることはできない。

ジョーが手を隠し、真実の口に手を食われたというジョークは、
単なるジョークとして見ることは本当はできない。

なぜなら、相手に嘘をついているというお互いの心情が、
あの真実の口によって浮き彫りになるからである。

自分は嘘を付いているから手を食われるかもしれないと恐れるアンと、
同じく自分は嘘を付いているという後ろめたさをジョークでごまかすジョー、
お互いの心が行き交い、その断片を伺い知れるのが、あの真実の口の場面なのである。


いつ、お互いが真実を口にするのか、
それが観客の興味を引き、最後まで見入ってしまう。


真実の口の場所で明かすのか、
警察署で明かすのか、
パーティ会場で明かすのか、
秘密を抱いたまま、映画は最後まで続いていく。

そして、そのままアンは立ち去ってしまうのであった。



次の日、アン王女の復帰記者会見の場が執り行なわれる。

もちろん、そこには記者としてジョーは現れる。

そのとき、お互い初めて、
お互いの素性を明かした状態で、
相対する。

しかしながら、公の場で。



アンは王女として、そしてジョーは新聞記者として振舞うことしかできない。

そこには、他の新聞記者も数多くいるし、アンの取り巻きもいる。
アンはジョーを特別扱いすることはできないし、
ジョーもアンに馴れ馴れしくできない。


そう、だからこそ、最後は、お互いの表情が重要になるのである。


そこでは、直接的にお互いついていた秘密を弁解するチャンスもなく、
相手を許すということも伝えることができない。


その緊張感こそが、最大のクライマックスとして、描かれる。


表情で会話し、公の言葉の中に、二人だけの会話を成り立たせる。


ジョーが記者であったことに戸惑うアンであったが、
政府間の関係についてどう思うかという質問に対して、こう述べる。
「個人個人が関係を維持することが大事である」
と。

それは、まさにジョーの嘘を受け入れ、
お互いの関係を維持するということを、
「政府見解」として述べたのであった。

そして、ジョーもそれに対して、「通信社」として、
「その王女の信頼は裏切られないでしょう」と述べるのである。


この最後の数分のやりとり、そして二人の表情を見て、
観客は、このローマにおける休日の数々の思い出を想起する。


そして、最後、アン王女は、みんなの顔を眺める。
その視線がジョーに移ったときに、
笑顔と、そして悲しみの表情を浮かべ、
そして振り向き去っていく。


この最後の表情で、あらゆる思い出はフラッシュバックし、
あらゆる思いが浮かんでは消える。

喜びや楽しみ、そして悲しみや嘆き、
それらが一緒くたになって、
観客の胸に突き刺さる。



その最後の表情を味わうために、
この映画は作られたと言っても言い過ぎではないのかもしれない。





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スコア:


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# by shinya_express | 2010-11-19 20:02
なぜ、人はドラゴンに乗りたがるのだろうか。


そこにあるのは、夢やロマン、所有欲や支配欲だけなのだろうか。



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この『ヒックとドラゴン』では、
人とドラゴンの関係がすごく丹念に描かれている。


ドラゴン映画と言えば、
なんか子どもぽかったり、魔法使いものだと思ったり、
安っぽいファンタジーだと思ってしまうかもしれない。

けど、この映画はそれらに該当しない。

もちろん子どもも楽しめるのだけれど、
もはや世界の酸いも甘いも経験した大人こそ、この映画のテーマを実感できる。


ドラゴンと人間の間には、種族の違いが存在する。
その間には越えられない壁がある。
だってお互いは意思疎通できないし、
ドラゴンの大きさは、あまりに人間の生活空間とは相容れない。
その「偏見」から、人はドラゴンを殺すこと、しか考えなくなるし、
ドラゴンも殺される前に殺そうとする。

そんな世界の話。

バイキングの海賊たちがドラゴンと争う世界で、
ドラゴンを殺すことこそ、大人への仲間入りであり、
一人前のバイキングとしての証となる。

その世界で、主人公ヒックは、とある日、
怪我をしたドラゴンに出会う。

殺すチャンスだと思ったヒックだが、
そこでそのドラゴンを助けてしまう。

ドラゴンは人を襲う、と信じられていたが、
そのときドラゴンはヒックを襲わず、その場を離れる。

気になったヒックは、そのドラゴンを探しに行く。
そこにいたのは、尾ひれを損傷し、
うまく飛べなくなったドラゴンだった。

そのドラゴンとヒックが打ち解けあっていく物語が、
この『ヒックとドラゴン』なのである。


そこで、多くの人は思うだろう。
単なる未知との遭遇モノか、と。

たしかに、要約してしまえば、
異種族間の相互理解を描いたものである。

けれど、そのテーマ性以上に、
「描き方」がこの映画のキモとなる。

言語を持たないドラゴンといかに通じ合っていくか、
「理解」が難しいからこそ、
態度で示していかなければならないヒックの努力。
言語では処理できない、お互いの空気感は、
観客にも伝播し、必死にヒックと自分を同一視してしまう。

それは、『アバター』で描かれた異種族間の意思疎通以上のものがある。
アバターでは、人間の言葉を操り、
そこには言語による介在が存在した。

けれど、ヒックとドラゴンの間に、その言語は存在しない。
だから、動くしか無い、態度で示すしか無い。

その必死さこそが、まさに異文化理解の証となり、
ドラゴンは少しずつヒックに心を許していくのである。

その過程で、ヒックはドラゴンに乗らざるをえない状況が生じる。
そこには、ヒックの夢やロマン、支配欲ではなく、
せざるを得ないプロセスがあるからこそ、
ドラゴンの上に乗るという結果に至る。

そこに、この映画の丁寧さが伺い知れる。
単に下僕、家畜として扱うのではなく、
必然性を描くことで、そこに納得を産み、
ドラゴンと人間の対等性が担保されるのである。

その作り手の丁寧さ、優しさが、
ドラゴンへの敬意、ひいては異種族への敬意に思われた。

お互い対等に助けあうというのは、
とてつもなく困難なことである。
そこには、上下や優劣が伴ってしまう。

力はドラゴンが有し、頭脳は人間が有す。
頭脳で優ってきた人間だけれども、
それを傲慢に思わないことにこそ人間の可能性が存在する。

異文化や異種族のメタファーとしてのドラゴンに対して、
自分たちはいかに接すればいいのか。

そんなことを考えさせてくれるのが、この映画なのである。


そして、ラストシーン。

そこでは、子ども映画には起こりえないすごい結末が描かれる。


そのシーンこそ、私たち大人が受け入れなければならないことかもしれない。


それを乗り越え、そして成長することこそ、
大人になる、ということなのかもしれない。
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# by shinya_express | 2010-11-19 18:55
やばっ!

自分の文体を発見した!!



ついにものが書けちゃう!!



天啓だーー
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# by shinya_express | 2010-11-18 14:58
父性の喪失について最近は考えることが多い。

それは、Brothers & Sistersというアメリカドラマを見ているからである。


ブラザーズ&シスターズ シーズン1 コレクターズBOX Part1 [DVD]

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このドラマは、ありきたりなホームドラマである。
兄弟5人と両親が織り成す家族の話。


けれど、第一話で、父が逝去する。

残された子ども5人、そして母は、
父が遺した数々の問題に直面していく。


父はファミリーカンパニーを経営していた。

そこで長女と長男が働いており、
必然的にその会社を引き継ごことになる。
子どもたちは、すでに30代前後であり、
それぞれにそれぞれの生活を持っている。

父の会社を引き継ぐ長女と長男、
独立してニュースキャスターとなる次女、
弁護士として生きている弟次男、
イラクに従軍した三男。

彼らは、父亡きあと、
それぞれの価値観で生活を営んでいく。

がしかし、
そこには父の亡霊が付きまとうのである。

父が遺したのは、多額の借金、愛人、隠し子だった。

それらの難題を、
家族はぶつかり合いながらも団結して乗り越えていく。


この物語で描かれているのは、
明らかに喪失されてもなお、亡霊として付きまとう肥大した父性である。

河合隼雄によると、
父性とは、「いい子はわが子」の論理だという。

母性は、「わが子はいい子」論理で、
すべての子を平等に扱い、母性愛で包みこむ。
そこに区別も差もなく、横の並びで子どもたちに接する。

それに対して、
父性は、そこに序列、価値観をもたらす。
それを「分離」と表現する。
つまり、いいことと悪いこと、正しいことと間違ったこと
というような価値観を導入し、
子どもたちに、いい子という規範を示す。
それが父性なのである。

つまり、
母性が子たちを包含し、父性が分離する、というのが
いわゆる心理学でいわれるところの父性母性なのである。

このドラマの一家は、
その父性の呪縛から逃れ、
母の愛によって、それぞれを平等に、対等に包まれる。
そこに母子愛が生まれ、問題を乗り越える。

しかし、たびたび、いまだに子どもたちは父の価値観から抜け出せない。

なぜ自分に会社を継がせたのかと長女は自問自答する。
なぜ自分をトップにしてくれなかったのかと長男は問う。
ゲイである自分を愛してくれなかったと次男は苦悩する。
母を傷つけた自分を父は軽蔑していたと次女は悩む。
戦争に行ったことで、父は自分を否定したと三男は苦しむ。

こうして、兄弟たちは、
肥大した父性の規範に縛られ、
それに囚われ続ける。
父性を信じ、父性に縛られ、そしてあがく。

父は何を思ったのか、誰を一番だと考えたのか、自分たちに何を求めたのか、
そうやって兄弟たちは苦悩するのである。

しかし、その父性の正体は、
多額の借金、愛人、そして隠し子であった。

肥大した父性はそこで崩壊し、
彼らはアイデンティティの一端を失う。

そんなときに、そんな彼らを平等に包みこむのは、母である。

彼らを区別せず、無償の愛で抱きしめる。


そうして、彼らは救われるのである。


何度もぶつかり合う兄弟たちは常に父性の呪縛の中で苦闘する。

お前を父は一番に信頼した、とか
お前が一番父に愛されていた、とか、
父は自分を見てくれなかった、とか、
そういう妄想だけが、暴走し、
ありもしない擬似父性を想定し、
その行き違いでぶつかり合う。

しかし、母は、
父はみなを平等に愛していたということを伝える。
それが真実かどうかではなく、
そうやって母性によって包みこむのである。

このドラマの中では、
やりすぎというくらいに、母を否定しない。
出過ぎたマネをすることの多い母であるにもかかわらず、
話の流れで結局は母が正しかったというストーリーを創りだす。

そのやりすぎというくらいの母性の肯定は、
父性の喪失の反動以外の何ものでもない。

それほどまでに、家族は母性に飢えているのである。


しかし、これは、単にこのドラマの中だけのことなのだろうか。

それは、アメリカという国を象徴しているのではないだろうか。


つまり、父性としての秩序が崩壊したアメリカは、
今猛烈に肯定してくれる、包みこんでくれる母性を欲しているのではないだろうか。

世界の警察として「活躍」し、悪の枢軸を殲滅せんがために奔走したアメリカは、
いま、その寄る辺となる規範を失っているのではないだろうか。

父を失ったこの一家のように、
秩序を失ったアメリカ国家は、右往左往し、
何を信じていいかわからず、
過去の価値観に依存し、
もう一度父性の復権のためにオバマを擁立した、
とは言えないだろうか。

そして実は、
もう大丈夫、あなたはよく頑張った、
と言ってくれる母性を求めているのではないだろうか。

世界の父性たろうと奔走したアメリカは、
その任に疲弊しているのではないだろうか。

母性から独立しようとし、さらに新たな父性を確立しようともがく様子を
Brothers & Sistersシーズン3の第10話は端的に描く。

子どもたちはそれぞれの家庭を持ち、
一緒にサンクスギビングを母と過ごせない、と母に告げる。
(それが各自の母性からの独立を意味する)

しかしながら、長男の娘が肝臓の病気になり、次男がそのドナーになるといった事件が起こる。
(実は長男は子供の出来ない体であり、次男が精子を提供したので、
長男の娘の生物学的父は次男、という複雑な経緯がある。)

そういった事件が起こり、
結局は、家族みんな母と一緒にサンクスギビングを過ごすことになるのである。

ここで描かれていたのは、
父となることを意識した長男の苦悩であり、結局は母性に絡め取られる家族の依存性である。

生物学的には次男の子であるにもかかわらず、長男は「父」となることを引き受けた。
その意思が揺らぐのが、娘を直接的に助けられない父としての無力さであり、
結局は生物学的父である次男にしか娘を救えないという事実だったのである。

「父となること」に苦悩する長男、
生物学的には「父になってしまっている」次男。

彼らを、並列的に包みこむのは、
もちろん母である。

父となることをひとまず保留し、
結局は今まで通り、母性にすがるのであった。


これはまさに、オバマを新たな父性として掲げようとするものの、
結局はまだ子どものままに陥っているアメリカという国そのものなのである。


シーズン1で父性の肥大化、
シーズン2で父性の否定と絶対的母性の肯定、
そしてシーズン3では母性から自立しようともがく姿勢が描かれているのである。

まだまだ先が長いこの物語はどこへ行き着くのだろうか。
もはやアメリカの迷走と同様に、ドラマも迷走するのではないか、と不安になりながらも、
今日もドラマの続きを見続けている自分は、一体何を求めているのだろうと自問自答するのである。
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# by shinya_express | 2010-11-13 21:28
今日も日記を書くことにする。




8時起床。

火曜は、1限から4限まで授業という、高校生のような日。

なので、割愛w




放課後。

17時から18時まで、
最近は、聖書の読書会に参加中。

友達に誘われて、
参加し始めた次第です。

いつかは、聖書読まなきゃなーっと思っていたし、
せっかくの上智なので、学ばいないのはもったいない、
ということで、参加しています。

当初は、参加者3人で、
そこに神父さんが来てくれて、
優しく教えてくれる会だったのですが、
今日になって、倍に増えて、
6人になりました。

そこに、3年ぶりに会う友達がいたのでびっくりしたのだが・・・

というわけで、
読書会がスタートしました。

神学部の女性が一人、
キリスト教徒らしき女性が二人、
中世史の大学院生が一人、
神父見習いが一人、
そして、
おれを誘った友達と
おれ
に計7人です。

あ、7人だった。

そこに、神父さんが参加しるので、
8人でやりました。

上記の説明からも、
結構キリスト教キリスト教しちゃいました。

最初の参加者3人は、
友達、おれ、中世研究者だったので、
宗教色はなく、
興味本位というのが強い会だったのですが、
今日になって、突然宗教色が強くなってしまいました。

まー、けど、先生の話を聴くのが基本なので、
聖書の専門家に、聖書の読み方を聞くのが一番。

しかも、結構フランクに説明してくれるので、
素人にはありがたい読書会です。

マタイやらルカやらを引きながら、
イエスがどんな人だったか、
いい人だったとか、怒りっぽかったとか、
案外泣きまくってたとか、
いやいやマザコンかもとか
そんな感じでゆるい感じの会でした。



がしかし!!

最後になって、
神父見習いの青年(めっちゃ丁寧な口調を使う人)が、

「先生、この会の終わりにお祈りをしてはいかがでしょうか?」

と提案したのです。


それで先生は、

「そうですね。ちょっとやってみましょう。

・・・・・(祈りのことば)

アーメン」


皆(オレと友達以外)「アーメン」



先生「っていう感じでどうでしょうか?」




という風に、ゆるーいお祈りがありました。

まー祈ってもいいけど、
それを傍観してようかな、と思いました。


それは、アメリカでも経験がありました。

アメリカでは、留学生の交流を企画するイベントが数多くあり、
それは、カトリック系の団体が運営していることがしばしばあります。

フリーディナーとかいって、
ただで夕飯を振舞ってくれたりします。

けれど、そこには勧誘や強制などはありません。
(たまに、強い団体もあるけれど。。。)

ただ、ご飯を食べる前には、
お祈りを言う時間があります。

その間、キリスト教徒ではない人たちは、
それを傍観してて大丈夫なのです。

むしろ、それに参加しない権利は確保されてあり、
黙って聞いているのが、キリスト教徒以外の人のマナーでもありました。

そこには、信仰を貫くキリスト教徒の権利と、
信教の自由が確保されたその他の人間の権利が、
一種交差するような独特な空間が生まれていました。

手を組み、目を瞑る人と、
それを黙って傍観する人がそこには同居していました。


それを踏まえて、
この読書会でも、
そのような空気になるのかな、と思いました。


ところが、
その神父見習いは、
みんなが敬虔なキリスト教徒と思ったのか、
「次回からは、みんなで手をつないで祈るのはどうでしょうか」

と提案しだしたのです。


おそらく、おれらがキリスト教徒ではないと知っている先生は、
「うーん、それもいいかもしれませんね」
とうやむやにして、その会は終わりました。


さすがに、みんなで手をつないでお祈りというのは、
受け入れがたいものがありました。


最近では、俺自身も信仰心をもつようになりました。
般若心経のすばらしさや、
神社仏閣における型の重要さ、
信心深くなること、墓参り、霊的なものへの感覚など、
結構成長したと思っています。

だから、その文脈で、
キリストの言うこともわかるし、
キリスト教における信仰心も分からないではありません。

ただ、
自分が他人と手をつなぎ、
お祈りをするという行為に抵抗があったのです。

お祈りは大事です。
目をつぶり、呼吸を整え、
心を無にするのは大事です。

只管打坐的な感じです。
お祈りではないけれど、
そういう行為の重要性はわかるし、
神社でお参りするときには、
ちゃんと「祈る」ことができます。

東本願寺でも、
多くの僧侶と一緒に、
座禅を組み、瞑想もしました。


けれども、
やはりキリスト教流の祈りには、
抵抗が出てしまいます。



その抵抗感ってのは、
いったいなんなのだろうと考えてしまいました。

神社で、二礼二拍手一礼するのとは違う感覚です。

ただの「慣れ」の問題なのか、
そこには越えられない壁があるのか、
オレにはまだ疑問です。




ただし、二礼二拍手一礼に関しては、
最近では今までと違う感覚を持ち始めました。

もともとは、決まってるルールとして、
マニュアル的に行なっていました。

がしかし、今回の京都旅行以降気づいたのは、
型やルールを守るということはつまり、
そこに、相手への敬意が存在するという感覚です。

神社でいえば、神への敬意があり、
もっというと見えないものへの畏敬の念というようなものがあるからこそ、
誰も見ていないのに、二礼二拍手一礼するようになります。

その型を繰り返すことがすなわち、
相手を敬うことにつながるということがわかりました。

それは一種の悟りのようなものでした。

墓の前で手を合わせるのも、
思いを馳せる御先祖様への敬意以外の何ものでもありません。

敬意、畏敬があるからこそ、
型にハマることへの納得が生まれます。

尊敬する人に会うときには、
やはりスーツで行きたくなるものです。
ジーパンとスニーカーは避けるようになります。

型やマニュアルを逸脱するのが大事だと
教え込む人が多い時代だからこそ、
その型にはまらなければならない意味ってのを、
京都で学んだような気がしました。

だからこそ、
近所の神社やお寺にはお参りに行って、
そこで手を合わせることができるようになりました。

それを、
神や仏がいるんだろうなー
というなんとなくの気持ちでお参りするのではなく、
まさに、「信仰」というものが生まれた瞬間だったのではないかと思います。

「信仰」と「宗教」は別物です、と美輪明宏は言います。

宗教に惑わされること無く、信仰を持ちなさいと、彼は言いました。(彼女?)



その意味が、今ではスっと自分の中に入ってきます。


だから、キリスト教的な祈りというものへの理解もあるつもりです。
自分の信仰心を示す手段として、
神道や仏教とは異なり、お祈りを捧げるというのも分かります。


けれども、やはり、
手をつないでお祈り、というのは、受け入れがたく思いました。

それを「宗教」だと思ってしまうからなのか、
それとも、単なる習慣の違いなのか。

そこらへんはわからないけれど、
たぶんオレは、
めをつぶって、一人で般若心経を唱えちゃうでしょう。

そうすると、キリストやマリアに失礼かな、とも思うけれども。。。
(やっぱマリア観世音菩薩が一番いいのかな・・・w)


とにもかくにも、
次回の聖書読書会で、
もし手をつなぐお祈りが採用されそうになったら、
頑なに拒むことになりそうです。

そんなの適当にやってればいいじゃんってのも一理ありますが、
それは逆に、なんか失礼な気もします。
誰かに失礼な気がします。

アメリカで経験したように、
信じている人は祈り、その他の人は見守る、
というのが、信仰や異文化理解のあるべき姿のような気がします。

蛇足ですが、
異文化理解とは、他者を理解することではありません。
「非常識の存在を認めること」でしかありません。

自分にとっての非常識は理解に苦しみます。
手をつないで祈ったり、一日に何度も礼拝したりというのは、
正直理解に苦しみます。
しかし、それをそれである、と受け入れるのが異文化理解の本質です。
なぜそれをするのか、それにどんな意味があるのかを理解しようとしても、
それは、難しいものです。
理解を超えて、受け入れるというのが、大切だと思います。

こういう風に書くと、
異文化理解と敬意を表することは近い気もします。
相手の思想や信条を別にし、
相手が信じる常識の存在を認めるというのは、
相手に敬意を示すことと同義のような気がします。
墓の前で手を合わせても、誰もみてないだろ、
と思いながらも、
それを行う人に敬意を示すってのが、
異文化理解なのではないかと思います。


だから、手をつないで祈るのもあっていいでしょう。
ただ、自分はそれを見守るという選択をするというだけの話です。



聖書読書会の最後のささいなことから、
結構な長文を書いてしまいましたが、
最近の信仰心についてたらたらと述べました。



信じるものは救われるという言葉、真理だと思います。


それは、
「お前のこと信じてたのに!」
という文脈における「信じる」とは違う次元において、
真理だと思います。

もっと深い何者かの存在や有り様を信じることで、
魂が救済されるという意味だと思います。




宗教と信仰は違うようです。


宗教に騙されず、信心深く生きたら、いいことがある気がします。
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# by shinya_express | 2010-10-27 01:50

不毛な日々を過ごしてしまいがちな今日この頃なので、
日記でもつけて、生活に張りを持たせようず!




+++



8時:起床←オレの中でめっちゃ早い

8時半:朝からアニメ(銀河美少年w)

9時:外出
→学校にでも行こうかと思ったけど、
一緒にランチしようとした人に断られたのでひとまず吉祥寺駅スタバへ

10時:TOEFLのリーディング@スタバ

今日のリーディングは、
<建築学>
ゴシック建築が廃れたあとに、ネオゴシックが台頭した話。
アメリカ人はふるーいヨーロッパ建築を真似して、ゴシックっぽいネオゴシックに固執したのでした。

<植物学>
ゼニゴケとコケの違いについて。
という和訳がされていたが、たぶん間違い。

だからZ会はダメなんだよ・・・

MossとLiverwortの違いなので、
それをそれぞれコケ、ゼニゴケと訳すのはおかしい。

そもそも、「コケ」という呼称は、
コケ類なのか、真ゴケ系なのかが判然としない。

ゼニゴケはコケ類だけれども、真ゴケではない。

と考える場合、ここでは、

Moss=マゴケ植物門、つまり「蘚類」
Liverwort=ゼニゴケ植物門、つまり「苔類」

と訳すのが適切である。



みんな、コケには注意しな!




12時:スタバをあとにする。

13時:帰宅、Brothers & Sistersを見始める
→このドラマ最強だから。
みんなみないといけないよ。
ついに、レベッカ登場!!

ザ・アメリカの家族が描かれています。
ケネディ家に憧れる母ってのが、昔のアメリカ人を象徴してて、良い。


そのままダラダラ、時間が過ぎる。


15時:メールがくる
→1週間前にとある会社に質問のメールを送ってたのが判明。
バイト申し込みもしてるようなので、履歴書をメールで送る準備。

この会社?研究所?ってのが、酷なところで、
志望動機書で5000字も書いてしまった。。。

これを書くのに、21時までかかる。。。

金子郁容とエミール・ゾラと西田幾多郎を絡めながら、
志望動機書を書いた。

こんな内容を課すところは、
あそこしかないですよね。はい。






22時:アニメ(荒川アンダーザブ・・)

23時:お風呂

24時:今に至る





こんな今日でした。

つまり、コケと西田哲学な日々。




おやすみ
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# by shinya_express | 2010-10-25 23:04


最近は、ものを書けない病な感じ。


書きたいものが降りてこないんだよ
的な、いっちょまえ小説家風ではなくて、
なんか書くのをためらう感じ。


im afraid of expressing的な感じ。


TOEFL前で英語かぶれなのですw

afraidってのは、なんだかいい言葉で、
オックスフォード英英辞書によると

【afraid】
feeling fear; frightened because you think you might be hurt or suffer

とある。



「恐い」っていう漢字にあるようなものでもなくて、「畏れ」でもなくて、
なんだか、「こえぇーよぉー」という感じ。

つまり、対象そのものが恐怖を有してるもの、
たとえば、お化けとか、神とか、
そういうものに対して使うんじゃなくて、
自分の保身のために使う感じの単語だと思う。

その対象のせいで、自分が傷ついちゃう、という感じ。


彼女を怒らせちゃって恐いよー(=自分が怒られるのが恐い)

とか

仕事が心配だよー(=自分が仕事で失敗するのが恐い)

とか。




というわけで、
自分が書いて失敗するのが恐い感じ。




というか、
過去を振り返ってみて、
「ちゃんと」文章を書いたことなど、
ほとんどないということを気づいた。


事実をちゃんと持ち出したり、
情報を整理したり、
順序だてたり。

そういうのがめんどくさくて、
なんとなく頭にあることを
ざぁーっと書いていくことばかりやってきた。

たぶん今まで書いてきたもの全てがそう。


だから、卒論とか書きたくない。


根拠が必要だし、
文献が必要だし、
出典が必要だし。

そういう「ちゃんとした」文章が苦手。

というか、めんどくさい、
というか、逃げたい。


だから、いつも、
こうやってキーボードを走らせて、
気の向くままに書いてしまう。

けど、そろそろそんなんじゃなくて、
ちゃんと書けるように練習しなきゃいけんないんだろうけれど、
なかなか重い腰が上がらない。

これだから、ライターにはなれないな、と思う。

インタビューしたり、
資料集めたり、
本を読みあさって、
それを形にするなんて、
めんどくさすぎるのです。


けど、そろそろやんなきゃいけないと思い、
ある人について書いてみたいと思うのである。

ある人というのは別に決まっているわけじゃなくて、
これから見つけたいのだけれど、
人を書けるようになりたいな、と思う。




とか、思うのだが、
ダラダラと日々を消費してします。



もっと、バクマンを見習わねば。

NHKで放送中なので、見てね。
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# by shinya_express | 2010-10-24 21:05

好きなことを仕事にしたいという人がいるけれど、
好きなことを仕事にしたとき、
その人には逃げ場がなくなる。



たとえば、音楽が好きな人。

音楽のセンスやスキルで勝負したい人が、
その世界に突き進んだとき、
もはや全人格的自分を賭けて勝負しなければならなくなる。


そこに逃げ場は、ない。

疲弊して帰宅した後に聴く音楽は、
もはや彼を癒すものではなくなってしまう。



もし彼が、車の営業マンであれば、
仕事で辛いことうまくいかないことがあったときに、
自分には音楽がある、と思うことができる。

それが、彼の精神状態を落ち着かせ、
目の前の現実にある仕事に再専念できる。

帰宅して、好きな新譜に耳を傾ければ、それでよい。




しかし、そこが車の世界じゃなくて、音楽の世界だったとき、
そこでの辛さやうまくいかなさ、というのは、
そのまま彼自身の人格を否定することにつながる。

音楽を軸に生きてしまった彼が、
音楽を仕事に選んでしまった。
音楽をお金を得る道具に用いてしまった。

その反動たるや、ものすごいものとなるだろう。


好きなことなど仕事にしないほうがよい。

そんなことをしたら、
何が自己を規定するのだろうか。

好きじゃないことを仕事にするからこそ、
人は一歩引いた目で仕事に当たることができる。

好きじゃないことにいらいらしても、
それは好きじゃないからいらいらするだけであって、
それ以上のものではない、と逃げることができる。



好きなものを仕事に選ぶべきじゃない。


それは、全人格を賭けることを意味する。


そこでの失敗は、人間的失敗に直結する。







好きなことは、大事にとっておくのが、
精神衛生上、大切なことなのである。
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# by shinya_express | 2010-10-24 19:03


最近、ブログが自意識系でウケるw


オレにもこういうの書けるんだぞアピール☆(キリッ




自意識を捨てるには般若心経が一番。



ギャーテーギャーテー
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# by shinya_express | 2010-10-20 04:06


最近人生が楽しいような気がするなう。





+++




人には、
できること

やりたいこと
というものがある。


そして、よく言われるのは、


できることは、やりたくない、
やりたいことは、できない。


ということ。



このズレに人は苦しむ。



やりたいのに、できない、
できるんだけど、やりたくない。



そうやって、
学校とかバイトとかサークルとかで苦しむ。





がしかし、
自分を振り返ってみたときに思う。


今まで、できることばっかやってきたな、と思う。



やりたいことなんて特になくて、
できることできることばっかやってきた。


だから、基本的に苦労なんてしたことがない。

勉強にしろ、サークルにしろ、バイトにしろ、
できることばっかやってきたから、
まったく苦しむことがなかった。




それは一種の逃げでもあったけれども、
逆に特技でもあった。


みなは、できることはやりたくなくて、
できないことに挑戦していった。

その一方で、
自分は、
できることを十分に楽しむことができた。



たとえば、雑用。


延々、三つ折りにする作業とか、
封詰めする作業とか、
そんな単調な仕事が得意なんだが、
全然飽きない。

ずっとやれてしまう。




たとえば、試験勉強。


常に8割取ることを心がけ、
いろんな試験に臨むけれど、
基本的に失敗することは無い。





そうやって、
できることばかりを選んで、
自分のやりたいことってものを考えてなかった。




大学入っても、
国際政治など興味もなく、
食なんて興味もなく、
留学なんて興味もなかった。

どれも、なんか成り行きで関わった。


常に誰かに誘われてた。


自分の意思とは関係なく、
ふらーっとやってた。


そこでも、やれと言われたら、
大概のことはできてしまった。


サークル運営、マネジメント、あれやこれや。


結局、できちゃうから、
なんとなく、それらに関わってきた。



ある程度、マニュアルがあって、
体系付けされてて、
本さえあれば、
ほとんどのことは、できてしまうことに気づいた。

それは、なんでも100%できる、という意味ではなく、
7、8割のレベルでこなせる、という意味。


大成功はしなくても、
失敗はしない、
というのが、
今までやってきたことだった。


それは、高校のブラスバンド部時代でもそうだった。


楽器には適性がある。


自己中系は高音、
空気読む系は低音。

最初はサックスとかやりたかった。
木管の練習もした。


けれど、結局、適性ということで、
低音金管楽器になった。


適性のあるものは、
どんどん伸びる。

数カ月で、うまくなってしまった。
心の底から楽しいわけじゃないけれど、
できるようになると楽しいような気がしてた。

やりたいものよりも、
できることを選んだほうが、
楽だということをそのとき知ったのかもしれない。


そして、できることが、
たとえ、興味ないことであっても、
なんか苦と思うわずにできるということを知った。


それからというもの、
保守的になったのかもしれない。


できることが広がり、
特に汎用性の高いマネジメントや企画、運営が得意とわかってから、
何でもできちゃうな、と思い始めた。

どこの企業でもソツなくこなし、
ある程度の地位にも就け、
むしろ重宝されること確実だと思う。

自分で言うのもなんだけれど、
オレほど働く人は、なかなかいないと思う。


今までどれほど、
人のためにいろんなことをやってきたかわからない。


人の仕事、人の宿題、人のES、人の・・・


けど、全部すごくタメになった。
だから、文句とかはない。
それが、その人のためにもなり、
そして自分のためにもなった。

自分が特に積極的にやらないことを、
人を通してやることによって、
いろんな経験を積むことができた。

自分じゃやらないであろう仕事、
自分じゃ選ばないであろう授業、
自分じゃ受けないであろう企業などなど。

それらを、
厭わずこなせるというのが、
たぶん自分の特性だと思う。


たとえば、
今から、
明日の化学のレポート手伝って!
と言われたら、できちゃうと思うし、

今から、
いい感じのパワポ作って!
と言われたらできると思う。



そうやって今までやってきたことによって、
処理能力とかも上がったし、
他人への共感能力も上がった。



だから、
こういう人間は組織や企業にうってつけだと思う。

やってほしいことをやれるし、
興味ないことへも興味を見いだせる。

結構、企業にとっては重要な資質だと思う。










ただ、
やっぱ自分にも理性ってものがあるらしい。


これでいいのか?


と自問自答する。

というか、たぶん、ずっとそう思ってた。


もちろんビジネスって大事だし、
企業の存在意義を疑うようなアンチ資本主義には染まっていない。

やっぱ資本主義っていいと思うもの。



ただ、
なんか、
企業に「普通に」入ったら、
自分の人生が終わる気がしてたのだと思う。


だと思う、というのは、
自覚があったわけじゃないけれど、
なんか「開かれない未来」ってのを無意識で思ってたのだと思う。


それが、単に、
「なんにでもなれるオレ!!」の可能性を潰すことになるじゃないか!
という自意識系意識に根ざすものだとも思った。

だから、
どっかでそういう自意識を捨てて、
踏ん切りをつけて、
社会に出ていかなきゃいけないのかな、と思っていた。
それが、オトナになることだろうなと思った。

だから、ちょっとは普通の会社も受けてみた。


けど、どっかで、
まだそういう意識が残っていた。



その意識は、
無謀な自意識にも根ざしているのかもしれないけれど、
それ以上に、
これまでやりたいことってのを
選んでこなかったことが原因じゃないかと思った。



多くの人は、
社会にでる前にやりたいことをやって、
そろそろ社会に出るか、と踏ん切りをつけて、
やりたくないことの待ち受ける社会に出て行く。


けれど、オレは、
今までやりたくない、というか、
なんとなくやれちゃうことを、
仕事のようにこなしてきた。

もちろん楽しかったこともあるし、
達成感なんかもある。

けれど、それは、
会社における達成感といささか違いはない。

目の前のタスクを処理できて、
やったーーーという感じ。

そうやって、今までやってきたことで、
自分のやりたいことってのを不明確なままここに来た。




さて、どうしよう。


この延長線上に社会を位置づけ、
また、与えられたタスクを処理していくのだろうか。

そこにはある程度の楽しさもあるし、
ほとんどができる仕事なので、
苦労なんてそんなにしないだろう。
企業で苦労する意味がわからない。

もちろん、上司が臭いとかで苦労するだろうけれど。

けれど、結局はソツなくこなしていく予測可能な未来に、
自分の身を投じる覚悟があるか、と聞かれたら。





断じて、ない。





なら、やりたいことを探してみようと思うのである。

できないことをもっと見つけようと思う。




その第一歩が、
文字を扱うことであり、
さらに、
文化芸術系に行くことだと思う。


文字はある程度できると思うけど、
本気で立ち向かうとなると、
そこには大きな壁があって、
無限とも思える修行が必要になる。

文化芸術は、
やっぱ一番苦手な分野だと思う。

そこにはマニュアルがないし、
これをやっとけば、わかるというものでもない。

けど、見てて楽しいし、
意味不明だし、気持ち悪いし、ウケる。


だからこそ、
もっと関わっていきたいと思う。

けれど、
ホントに苦手すぎて、
何から手をつけていいかわからない。



こうやって、
自分にできないことや、
7、8割で処理してきたことを、
100%にもっていこうとすることは、
自分にとってとても新鮮なことだと感じる。



うわー、できない、どうしよう。。。とか
途方もない修行が待ち受けてそう。。。とか
やりたいこととか言っちゃうのってなんか恥ずい。。。とか



今まで受身受身で生きてきた中では味わえなかったことが、
今になって、押し寄せてくる。



だから、できなすぎて、わからなすぎて戸惑うし、不安にもなる。
自信もないし、適性なんてないような気もする。


けれど、とかなんとか思うようになったのが、新鮮で楽しすぎる。




という二重の感情が、自分の中に渦巻いてる。






果てしない壁に立ち向かうっていうことをやってこなかった。

そんな度胸もなかったし、
低い壁のほうを登れば、楽に先に進めた。
人生甘っちょろかった。




けれど、そんなことは、もうやめようと思う。

もっと辛くて大変で貧乏で悲惨で、
けれど、やりたいと思える方に向かおうと決めた。


まだまだ、明確にはわからないけれど、
じわじわと先が見えてきたような気がする。

なんとか来年以降の職にもありつけそうな気がしないでもない。





そうやって、汚く、恥ずかしく、どうしようもなく、惨めに、
けれど、胸をはって生きれたらいいな、と最近思うのです。









友達はほとんど就職が決まってる。

けれど、彼らは一様に、なんだか物哀しげな感じがする。

年収1000万にすぐ到達できそうな人々なのに、
なんかあと半年で人生が終わるような顔を時たま、する。

もちろん、仕事が始まれば楽しいのだろうけれど、
もうこんな風に遊べなくなるな、と口にする。
こんなことできるのも大学生のうちだな、と言う。

なんか夢も希望もない社会に出て行くような雰囲気を醸し出す。


だから、多くの友達は、
あと半年を基準にしか、将来を見ない。

それまでにできることは、
新たに何かを始めてみたり、
新たに活動してみたり、
新たに面白いことを発見しようとするのではなく、
今までのようにカラオケに行き、旅行に行き、飲み会に明け暮れて、
この半年を謳歌しようと必死になる。

なんか、人生の悲しい最期をみているような気がしてくる。



もちろん、それが大人になるってことを言うのかもしれない。
それが成長なのかもしれない。

実際的に、6ヶ月後以降の見通しがわからないので、
そういう風にしか生きられないのだと思う。
仕事は忙しいだろうし。


けれど、なんか楽しそうじゃない。
そんなに大学生って楽しいか、と言いたくなるけど、
みんなは今が楽しいらしい。


人生のたった20年そこらしか生きていないのに、
なんだか社会に出たら一気に老けこんでいくのだろう。
転職もするかもしれないし、
結婚、出産とかも経験するだろう。


けど、そこに見えるのは、具体的楽しさではなく、
誰もが享受する数直線状の人生しか、
オレには見えない。

25歳で結婚、27歳で出産、30歳で出世、・・・、60歳で退職、楽しい老後。

こんな一次元の人生しか想像できない。


30歳以降の「・・・」の空白は、とてもリアルだと思う。
30代、40代が想像できない。

その一方で、「楽しい老後」は想像できる。

だったら、この20年、30年はどこへいったのだろうか。



こんな風にしか想像できない人生なんて嫌だ。


だったら、Y軸を加えて、Z軸も加えて、
3次元の曲線を描くような人生を歩んでいきたいと思う。


上がったり、下がったり、右にいったり、左にいったり。

まさに紆余曲折しながら、
不確定な5年後目指して生きてたいと思う。

楽しい老後なんてクソ喰らえ。
誰しも一人孤独死するものだ。

それよりも3年先、5年先、10年先の自分を夢想して、
そこに向かった突っ走ればいいと思う。




普通の幸せを得るよりも、
死ぬような苦労を取ろう。




それが、たぶん自分のやりたいことなのだと信じるしかない。
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# by shinya_express | 2010-10-20 04:01