昨日は、映画の日
ということで、
友達と会う前の空き時間に、
映画館を散策したわけでした。

ちょうど待ち合わせ時間までに見れそうな映画をさがすと、
今年の冬に公開された涼宮ハルヒの消失がまだやってたわけでした。

これは、見るしか無い、
ということで行ってまいりました。



いやいや、オタクばっかだった。

カウボーイハット姿の人や、
ハゲ散らかった人など、
おっきなお兄さんばっかでした。



さて、内容ですが、
いやーーーーーー
よかった。


さすが、京アニです。

昨年のテレビシリーズでは、
角川の意向からか、
延々と続く夏休みを表現するために、
8回連続同じような内容の回を放送するという暴挙に出たものの、
この映画ですべては報われたと言っても過言ではないでしょう。



そこで、何を今回は描いたのか。

そもそも、涼宮ハルヒの憂鬱とは、
涼宮ハルヒという女子高生を憂鬱にさせちゃうと、
世界に歪みが生じちゃったり、
世界が書き換えられちゃったりするから、
周りの取り巻きの努力でそれを防ごう
という内容のものです。

そのために、
宇宙人、未来人、超能力者が奮闘し、
普通の人間であるキョンが巻き込まれちゃうというものでした。


そんな中、
突然涼宮ハルヒが消えてしまうところからこの映画は始まります。

そもそもこの世界には涼宮ハルヒなる人物は存在しないかのように
日常生活が進んでいく中で、
キョンだけは、過去の記憶を持ち、
このおかしな世界に戸惑います。

いわゆるパラレルワールドネタのような話になっています。


しかし、それはパラレルワールドではなく、
何者かの手によって世界が書き換えられたものだったのです。

もちろんそれは、ハルヒのせいだろうとキョンは思い、
何か元の世界に戻るために孤軍奮闘するわけです。


そして、そこで助けの手を差し伸べるのは、
相変わらず長門有希でした。

この世界でも長門と朝比奈みくるは存在しているのですが、
記憶は失っていました。

しかし、元の世界の長門が、
なんらかのメッセージを送ってくれているに違いない、
とキョンは考え、元の世界へ戻る鍵をさがすわけです。



その後、鍵を見つけ、
帰るきっかけを得ます。

そして、最後には驚愕の犯人。
そして、キョンという存在の意義。



という感じで、2時間半に及ぶ映画は終わります。








ここで、犯人のとった行動も意義深く、
うまく話を作ってるな、ということは言えるのですが、
一番注目すべき点は、キョンの心境の変化でした。









ここで、そもそも涼宮ハルヒの憂鬱はなぜ人気なのかを見てみることにします。


まず、一点目は、キャラの濃さ、かわいさ、作画のうまさ、にあると思います。
ハルヒのビジュアル、長門のキャラ、朝比奈さんのクネクネ動きに
多くのファンがついています。

さらに、話の奇抜さ。
ハルヒは世界を思い通りにコントロールできる力を持っています。
しかし、本人はそれを知らない。
だから、憂鬱になんかなっちゃうと、世界を破壊するほどの力を無意識のうちに発揮してしまうのです。
それを最小限に抑えるために、
未来人である朝比奈みくる、
宇宙人である長門有希、
超能力者である古泉一樹が存在するわけです。
そのSFまがいの世界観と、
しかしながら、
高校生のサークルという体をとっている身近さに、
ファンは、魅了されるのだと思います。

ハルヒを憂鬱にさせないための
文化祭や球技大会、旅行などが、
「普通に」行われ、
けれど、その世界は「異常」なのです。


そのギャップに何か深さを感じてしまい、
みんなが語りたくなってしまうのではないかと思うのです。




その中の唯一「普通の」存在であるキョンのモノローグで、
話は展開することが多々あります。

物語の冒頭は基本的にキョンのひとり語りです。
自分だけが普通である、
自分は巻き込まれてしまった、
という受身的姿勢で物語は進みます。

不運にもハルヒに見初められ、
いつも騒動に巻き込まれ、
好きでもないのに、
なんかやんなきゃいけなくなる
というのがキョンの基本的姿勢です。

その受身感、
ガツガツハルヒに気に入られようとしない感、
冷静な男の感じ、
しょーがなくやってる感、
そんなところに、キョンの魅力を感じている人も多いはずです。

少し距離をとり、
仕方ねぇな、と言って、
ハルヒの行動に付き合ってあげる。

本当は、オレは家に帰ってゆっくりしたいんだけど、
ハルヒが無理やり連れてくるから仕方なくたってるんだ
というような姿勢に、
視聴者は、上からの立ち位置を獲得します。

そこで、キョンがハルヒにぞっこんになってしまっては、
この作品は人気が出なかったと思います。

その距離感の取り方が、時代のニーズにはまったのです。

見てる人は、
二次元好きで、女の子好きで、
ハルヒ好きなのですが、
それを全部隠して、
あたかも俯瞰して全体を冷静に見て、
しゃーないな、ハルヒにつきあってやるか
という姿勢に自分を重ねるのではないでしょうか。

そのキョンの立ち位置の取り方が、
この作品のヒットの裏にあるように思うのです。





そこで、この映画の話に戻ります。

この姿勢のキョンに意識に大きな転換が起こるのです。



この冷静で、俯瞰し、主体性の無い姿勢が、
すべての問題の発端だったのです。


そして、終盤、
もう一人の心のなかのキョンは言います。
お前は本当はハルヒといるのが楽しかったんだろ、
心からこの学生生活を楽しんでたんだろ、
ハルヒに振り回され、毒づいてたにも関わらず、
そんな生活が楽しかったんだろ、
と。


そこで、キョンは、
自分が表面的には客観を装い、
しゃーねー付き合ってやるかという受身な姿勢を装ってたことに気付くのです。

楽しかったに決まってんじゃねーか
という言葉で、
キョンは元の世界に戻るきっかけを得るのです。



ここに、
現在の若者の「しらけ」や「距離をとること」や「一生懸命やってない感」へのアンチが見えます。

「しらけ」は、学生闘争以降、散々若者の武器として使われてきました。


そうすることで、
他者に与えられたことをやってるだけで、
別にやりたくないんだけどなぁ
という防衛線を張るのです。

いわゆる「逃げ腰」の状態です。



全然勉強してないんだけどー
と言っておけば、
30点でも、やっぱ勉強してなかったし、
と言えるし、
90点なら、勉強してなかったのに取れちゃった、
と言えてしまうわけです。

そうやって、
一生懸命やること、
自分に正直なこと、
本気で取り組むことからの
逃避が若者の間で流行したのです。


そういう斜に構えた感じに
かっこよさ
を感じてしまう人が増えたのです。


その象徴としてキョンがいるんだと思います。

かわいい子を前にしても、
別に好きじゃないし、
けど、あいつが言ってくるからしょーがなく、、、
的な状況を好む人が増加していると思います。



本気でやって、失敗したらかっこわるいし、
そもそも本気なんてだせー
みたいな風潮が席巻し、
手を抜いて、うまくやれたほうがかっこいい状況が
かなりのマジョリティを形成してしまっているのです。


テストに一生懸命臨んで100点よりも、
勉強やってないんだけどなーと言いながら80点取るほうが
カッコいい状況が生まれてしまっているのです。


その風潮へのアンチとして、
今回の映画があるように思えました。

キョンが初めて、
ハルヒに巻き込まれ、
騒動に巻き込まれる世界を、
実は楽しんでたんだということへの気づき、
もしくは、認めが現出するのです。

それで、書き換えられた世界からの離脱を決意します。

書き換えられた世界は、
宇宙人もいない、超能力者もいない、未来人もいない
「普通の」世界です。

キョンがめんどくさがったものは何一つ無い世界です。
表面的にはキョンが望んだ世界でした。


けれど、キョンは実は、
「異常な」世界をの方を楽しんでいたことを認めます。

受身的草食人間を装っていたことから離脱し、
積極的に楽しもうとするようになりました。

そのコペルニクス的転換に、
今回の映画の見所を感じました。


実際の今回の主題は長門有希にあるのですが、
個人的にはこのキョンの心の転換に
新しいブレイクスルーを見出しました。


それを、既存のファンはどう感じるのでしょうか。

受身的カッコよさに惹かれていたファンは、
積極的に楽しむキョンに自分を重ねることはできるのでしょうか。


本気、積極、一生懸命、という「ダサさ」を拭うくとはできるのでしょうか。




そんなことを考えた映画でした。
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# by shinya_express | 2010-07-02 15:52

現在、大人気映画『告白』を観に行ってしまいました。



告白

湊 かなえ / 双葉社







いやー前評判通り、衝撃的ですた。






松たか子がすばらしい。
めっちゃ、やな教師だったーーー

けど、いい演技しとった。




最後に、「なーんてね」っていう
脱構築ワードが意味深すぎたけど。





ただ、後半のダレ場付近で、
CGを多用しすぎて、
なんかうざくて、玉に瑕だった。




こんな社会派、反社会的映画が、
ランキング1位とっちゃうのは、
時代が欝なのかな。







あとは、『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』を見たすぎる。
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# by shinya_express | 2010-06-27 01:00
暇すぎるので、フォトショを使いこなせるようになろープロジェクト。



フォトショは難しい。。。

いろんなこと勉強しなきゃいけないらしい。

今回の挑戦は、
古びた写真にしよーの巻。

元画像は、こちら。
ボリビアでの写真です。


d0150611_0171032.jpg









これを、古びた写真ぽくやってみました。





こんな感じ。




d0150611_017485.jpg







この変換は、一見簡単そうに見えるのですが、
以下のようなプロセスを踏んでおります。


<枠をつくる>

手焼き写真の枠作りが必要です。

アルファチャンネルというものを雲模様に加工し、
それにブラシストロークをかけ、
スケッチのスタンプ効果を加えて、
あんな枠組みが完成します。


<写真を加工する>

それでは、メインの写真加工です。

オーバーレイベースに、
ぼかしを加え、
黒ツブレ、白トビの補正を行ない、
エンボスを加えて、
グラデーションマップでセピア調にして、
さらに、オーバーレイベースのテクスチャを粒状に加工し、
ノイズを加えて、
部分的にノイズを除去し、
出来上がりです。




カタカナばっかで意味不明ですが、
こんなプロセスを経て、完成なわけです。






一見する以上の加工が、
加えられております。



フォトショ、恐るべし。

なんでもできそうです。



次回は、合成写真の巻です。
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# by shinya_express | 2010-06-27 00:04

暇すぎて、パソコンばっかりやってる日々。





デスクトップをかっこよくしよう作戦で夜更かし。。。



d0150611_13233437.jpg

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# by shinya_express | 2010-06-26 13:24
資本主義ネイティブの視座

資本主義は今、疑わねばならない時期に来ている。
それは、資本主義を否定するという消極的意味ではなく、
一つの原理として再確認し、その脆弱性をも深く考えた上で、
より堅固なシステムの構築へと向かわねばならないという意味である。

私たちは、資本主義が、
まるでこの世において完全無欠・唯一無二の経済システムであるかのような
錯覚を抱いている。

特に、1990年代以降に生まれた人々は、
社会主義の存在を肌身に感じたことは無く、
デジタルネイティブならぬ、「資本主義ネイティブ」とでも
言えるような身体感覚を身につけている。

社会主義など、
冊封体制ほど昔のものであるかのような錯覚を有しているのである。

そのため、空気にように資本主義を感じ、
その存在に疑問を感じてこなかった。

それが、このリーマン・ショック以降の大不況によって、
初めて疑問に感じ始めているのである。

資本主義とは何か、
それを考えるきっかけとして、
今回、平井俊顕の「資本主義を考える」
の論稿を振り返ってみることにする。

まず、資本主義そのものへの疑問を持つことからこの論稿はスタートする。

この時点で、私たちの中には躊躇いが生じる。

特に大学で経済学を学んでいるものは、
資本主義経済ありきで理論を学んで行く。

その土台へ疑問符を投げかけること自体、
自分の立っている足場を疑うことに他ならない。

さらに、経済学部という場所において、
その土台を疑問視する視点の欠如は日々感じる所である。

様々な講義はあれど、
どれもが資本主義や経済理論の暗黙の前提に依拠しすぎており、
根底への疑問を拒否する態度が感じられるのである。

効用とは何であるか、
需要供給曲線の前提にあるものは何なのか、
貨幣の誕生はどこにあるのか、
など後を絶たない。

もちろんこれらの疑問を考えていれば、
その先の議論へ進めないという講義スタイルの問題もある。

しかしながら、
これらの投げかけや前提、土台への疑問を
疑問として持たせてもらえない状況は、
確実に存在する。

モデルを構築するときの前提が
全ては明かされないまま、
そのモデル上で考えることを強要されているようなものである。

前回の講義であったように、
功利主義と効用主義の関係を明かさないままに
経済学が発展していることに疑問を持たない経済学者が多いように、

根底に疑問を持つことができない無言の圧力が、
経済学の中には存在するように思うのである。

このように
「経済学を考える」
ということが無視されがちな状況と同様のことが、

「資本主義を考える」
という題材には、
存在しているような気がするのである。


そこで、
資本主義を考えるには、
どうすればよいのだろうか。

その時に、
行う方法として効果的なことは、
資本主義以外の原理との比較である。

いまそこにあるものだけを眺めるのではなく、
対照実験を行うことは、
科学の基本である。

そのときしばしば取り上げられるのは、
やはり社会主義である。

しかしながら、
社会主義は失敗である、
というのが大多数の意見であり、

その論拠は、
歴史が証明している、
というものである。

この有無を言わさぬ根拠によって、
社会主義は無下に扱われ、
もはや扱われもしないような状況が現状であるように思う。

しかしながら、
この社会主義を進歩史観で一蹴することは、
あまりにも暴論であるように思うのである。

資本主義を客観的に眺めるための視点として
社会主義やその他の原理にその拠り所を求めることは、
合理的選択であるはずである。

そのため、中国・ロシアの経年変化は特筆すべきだと思う。

そしてさらに私が、注目したものは、
イスラーム金融システムである。

「利子」という資本主義が内包する増殖システムに対して、
イスラーム教は、(本来はキリスト教も)
かつてより危機意識を有していた。

よってデリバティブやヘッジファンドなども否定され、
独自の方法論を築いている。

もちろん、資本主義諸国との関係のために、
抜け道のようなものも存在するが、
原則禁止なのである。

この無利子思想は、
現在地域通貨制度への応用を遂げ、
様々な分野で研究が進んでいる。

今回ここに関して深入りしたいわけではない。
いわゆる資本主義システム以外の方法が存在する
という視点を持つことの重要性を最後に述べたいのである。

いずれデジタルネイティブが
紙媒体を忘れる時代が来るだろう。

彼らは、
電気が供給されない状況において
その問題に立ち返ることになる。

同様に、
資本主義ネイティブは、
今その他の可能性を忘れようとしていたところだった。

そして昨今の経済システムの瓦解である。

この大不況が疑問を持つ機会を提供してくれたのである。

そもそも資本主義は、
危機及び不確実性を内在したシステムである。

その原点に立ち返って、
これからのより良いシステムの構築へ向けて、
なんらかの方策を模索せねばならないだろう。

そのようなことを考えるきっかけとして、
今回の論稿は、私にその視座を与えてくれたと思う。



+++



相変わらず内容のないレポートでござい。
A4一枚の感想シリーズ第2弾です。
あくまで、感想なので悪しからず。

論稿は重い内容なのに、
A4一枚ってのに無理があると思うのだけれど。。。


というわけで、経済学への愚痴と、
資本主義ネイティブって単語を使いたかっただけの
レポート完成。






いやー宿題が楽なのは、素晴らしい。
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# by shinya_express | 2010-06-19 01:53

本日、毎週恒例、吉祥寺の英語サークルに参加!



今日は7人参加で、
会った事ない人もちらほら。

50代、60代の方々もいました。


先週のレビューは、iPadについて。
このお題は、どんぴしゃすぎて、
しゃべりまくってしまった。

話したいことがあるときは、
英語をもっとしゃべれるようになりてー
と思ってしまう。


そして、今週のお題は、移民。


結構、重めのお題です。
以前、外国人参政権について話しあったらしく、
その続きのようです。


移民と一言に言っても、
話すべきことは多々あるわけで、
なかなか論点が定まらなかったのですが、
韓国人参政権の話、
外国人労働者の話、
そして、言語の問題。

という風にどんどん派生していったわけです。


外国人労働者の受け入れに関して、
やはり年配の方は、
受け入れは、日本経済にプラスにならないといけない、
という話を始める。

だから、熟練労働者や知的労働者の受け入れはすべきだけど、
未熟練労働者は必要ない的な論になる。

そこで、知的労働者にとって魅力的な産業は日本には無い
という話で反論。


さらに話は、現代の日本経済へ。

スキルや技術をもった社会人が少ないことや、
日本が重視する産業が少ない話などへ。



そして、これからの社会を支える若者論へ。

若者の英語の必要性、
グローバル化への適応、
コミュニケーション能力の不足など、
結構、若者批判が多々。

若者代表として、
反論を試みるも、
マイノリティすぎて、難航。




この議論で痛感したのは、
やはり上の世代の人達は、
個人の問題、心理的問題、
ミクロな問題を取り上げがちになる。

つまり、精神論である。


しかし、現在の主流は、
やはり社会学的、構造的問題意識だと思う。


社会構造、システム、教育制度など、
マクロに捉える視点を身につけているのは、
やはり若者に多いように思う。
(30代以下が特に)


しかし、それより上の世代になると、
やはり精神論、気合論になりがちになる。

もはや、自己責任論へとつながる。


これだけ恵まれた社会なのだから、
あとは個人がやるかやらないかだ。
俺らの若かった頃はこれだけ大変だった的な感じ。



ここに、認識の違いが表出する。




ロストジェネレーション以降世代は、
やはり、自分たちの力ではどうにもならない感情が強い。

もはや大人の作った社会のせいで、
割に合わない時代に生きている感が否めない。

だから、構造のせいにする。
社会のせいにする。



しかし、上の世代は、
個人の努力でのし上がった意識が強い。

しかも、敗戦の焼け野原からの復興。
かなり不利な立場からの高度経済成長。
これを背景に、自信が漲っている。


にもかかわらず、若者は根性が足らん、
という話になるのである。



だから、自己責任論を植えつけたのは、
やはり上の世代なのだろうと思う。

なんらかのシステムによる影響を軽視し、
個人の努力が足りないことで話を終わらせる。




この世代間対立を
実感したディスカッションでした。


若者だけでつるんじゃうと見えない視点じゃないかと思う。
最近は、ニート肯定へ、
今の社会じゃない社会への渇望、
システムの変革
を高らかと掲げることが多い。


けれど、やはり30代以下はマイノリティなのである。

しかも、多くの資本は、40代以降世代が独占している。



根性だけじゃどうにもならないことを、オレらは知っている。

そういうミスコミュニケーションがまだまだ蔓延っている。


上の世代は、
単にグローバル化の時代だからという言葉だけを覚え、
今まで通りの根性論を世界に向けるだけなのである。

それが中国やインドの経済成長への妬みに移る。

そして、今の日本経済は不況だからダメなんだ、
という話に落ち込む。



しかし、実情は違うのである。


今は不況なのではない。

構造の変化の時代なのである。



今まで通りの理屈は通用しない。
GDPだけで話をする時代ではない。


昨日、えなりかずきが、太田総理で、
「中国に経済成長で負けたら、政治家みんな丸坊主」
というマニュフェストを掲げていた。

もはや、そんな時代じゃない。

GDPで勝てるはずが無い。
それに、そんな勝ち負けの価値観などどうでもいいのである。





世代間対立は、どうすれば乗り越えられるのだろうか。


「東のエデン」が描いたのは、それだった。
戦後復興を成し遂げ、財を成したじいさんが、
12人の人物に100億ずつ支給し、
それで日本を良くしてくれ、と言う。

それは、個人の力でどうこうなるものではない。
それを構造的に変革しようとしたのが、
主人公の滝沢朗だったのである。

しかも、それは対外的GDP成長などを目指すものではない。

彼がやろうとしたことは、
割にあってない若者世代への富の再分配であった。

そういうシステムの構築が不可欠だと考えたわけである。


この作品で対比的に出てくるのは、
学生闘争世代と現代のニート層であった。

高度経済成長を成し遂げたと自負する、そのじいさんは、
その理想として、坂本龍馬や白洲次郎を例として出す。
個人の力で、「日本」という国家を背負った代表的人物である。



もちろん、若者世代も、
上の世代やこういう思想への理解を示すことも、
大事なのだという言葉も出てくる。



理解を示した上で、
若者世代は、
新たな手法で、新たなシステムの構築を目指さなければならない。


若者の価値観を上の世代へ押し付けても、
それは根性論の押し付けと同じことになる。



世代を超えて、
国家を超えて、
ブレイクスルーしなきゃならないんだろうな、
と思う。







そんなことを考えた英語サークルでした。

とはいえ、別におじさま方が声を荒らげ、
若者はなっとらん!!
と叫んだわけではないので、誤解なきようw

みんないい人なので。




単にオレがうっすら感じただけ。







(追記1)
個人的に、
「日本の成長」とか
「国際競争力」とか
「日本人として」とか
いう表現が苦手。

日本がより良くなるために今何をすべきか、
などということをいう人は多いけれど、
国家なんて行政単位としてしか見れないのは、
オレだけだろうか?

日本の成長なんてどうでもいいんだけどな、
というのは間違っているのだろうか。




(追記2)

これだけは付け足したいのだが、
若者のコミュニケーション能力不足論は、
妄想だと思う。

おじさん、おばさんがスムーズに
コミュニケーションできているとは到底思えない。

居酒屋で酔っ払わないと自分の思いを吐き出せない人が多いのは、
もはやコミュニケーション能力としては最低レベルなのではないだろうか。

コミュニケーションができない話で多いのは、
若者は付き合いが悪い、というのがある。

それは、下の世代が、
自分の思い通りにならない
という意味でしかない。

それは、どうなんだ、
とも思ってしまう。



まぁ、今時の若者は〜的な話は、
いつの世にもあるのだから、
気にするべきものじゃないけど、
やっぱりその発言を目の前にすると、
反論したくなるなぁと思う。

別にオレが言われたわけじゃないけど。
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# by shinya_express | 2010-06-13 03:30

iPadを触ってみた。


あれは、やばす。




なんか未知なる体験。



みなが口を揃えて、
「新たな感覚」
っていう意味がわかった。




あれを持ったからといって、
正直やることはないので、
買う気はしないが、
あの感覚に虜になり買っちゃう人は多いのではないだろうか。



けど、しばらくすると、
結局、用途がないなー
とかいうことになりかねないのも確か。



ゲーム好きにはたまらないし、
ジェイルブレイクとかやりながら、
Keynoteでちょいっとスライド作ったり、
溢れる情報にアクセスしまくったり、
かなり有意義に使える人がいるのも確か。



これからのiPadの広がりが見物かな、と思う。





一方、iPhoneは、かなり行くとこまで行っている。


それは、キャズムを超えかけているんじゃないかと思う。



キャズムとは、、、
マーケティングでよく使われる用語だけど、
ジェフリー・ムーアという人が、
『キャズム』という書籍によって生みだした概念。

新しい革新的なIT技術を売り出すとき、
マーケティングを行う際に
段階的に、購買層を次のように分類する。

・イノベーター(innovators):
新しい技術が好きで、実用性よりも新技術が好きな人。オタク。

・アーリー・アドプター(early adopters):
新しい技術によって、競合相手などを出し抜きたいと思っている人々。

・アーリー・マジョリティー(early majority):
実用主義で役立つなら新しい技術でも取り入れたいと思っている人など。

・レート・マジョリティー(late majority):
新しい技術は苦手だがみんなが使っているなら自分も使わなければと思う人たち。

・ラガード(Laggards):
新しい技術を嫌い、最後まで取り入れない人々。

(wikiより)



特にアーリー・アドプターとアーリー・マジョリティーの間のことを、
の大きな溝(=キャズム)と呼んだのである。

マーケティングを行う際に、
この溝は、なかなか超えられないと言われている。

iPadで考えてみると、
現在、イノベーターがどんどん食いついている状態にある。

そして、次第にアーリー・アドプターへと移行する。
つまり、まだ流行りもの好きが食いついているという状態にある。

そのキャズムを超えなければ、
新しい商品はメジャー市場でブレイクすることなく、
規模の小さな初期市場のなかでやがては消えていく運命にある、
と言われている。


だから、iPadに関しては、
このキャズムを超えるかどうかが瀬戸際になる。



しかしながら、
iPhoneに関しては、
iPhone4が発売されることになり、
特にITオタクでなくても、
どんどん食いつきだしている。

今までお金のあるミーハー主婦やミーハーおじさんが
かなり食いついていたが、
かなりの割引や学割、分割などによって、
学生がどんどん移行している。

もはや、使いこなせないであろう人々までも、
この最先端IT機器を手にしているのである。

特にスカイプもしない、
パソコンメールもしない、
ゲームもしない、
インターネットにもそんなにアクセスしない人々が、
買うようになりだしているのである。

これは、すごい潮流なのではないかと思う。



結局、カッコよければ、
なんでもいい状態。



絵文字やメールに重点のある日本人ユーザーにとって、
iPhoneはかなり使いにくい。

にもかかわらず、である。





このまま携帯市場はどうなっていくのだろうか。


ガラ携への揺り返しがあるかもしれない。



結局メール依存の日本人は、
ボタン回帰するような気がする。


スマートフォンは、絶対に一度は憧れる代物だと思う。
一度は触れてみたいものだと思う。


けれど、日本人が今まで培った「フィジカルフィードバック」は、
そうそう取り除けるものではないのではないだろうか。

つまり、ボタンの押し心地、である。


ここに電源ボタンで、
メールボタン、
ここが数字の5、
など、
触れることによって、
そのボタンがなんであるかを認識する。

そのフィードバックによって、
かなりのスピードで、メールを打つことができる。

この技術は取り除けるものではない。



アメリカでは、メール(テキストメッセージしかないが)は
ほとんどやらない。

電話した方が安いから。
そして、留守電をどんどん残す。

しゃべった方がはえーじゃん、ということである。

これは、韓国も同様である。


電話が安ければ、メールなどというものは発達しない。


しかしながら、日本では、メールが発達し、
一台に一つのEメールアドレスが支給される、
という世界的に珍しい現象が起きた。
(ヨーロッパも同様らしいが)

一方、多くの国では、電話番号でテキストメッセージを送るだけなので、
絵文字もなければ、文字数も少ない。
日本でいうショートメールしかないのである。

だから、スマートフォンが生まれた背景は、
単なるしゃべる機器から、
インターネットができるもの
への移行だったのである。

ブラックベリーなどが注目を浴びた後で、
iPhoneの登場である。

しゃべる機器とインターネットが快適な機器に
さらにゲームができる
という機能を加えて、
アメリカ人の生活に溶け込んだのである。



しかしながら、
日本はどうだろうか。


携帯の発達はもはや特異なものとして認識されている。

ものすごい携帯依存型社会である。

電話という機能はとっくの昔に一機能になりさがり、
メール機能は肥大化した。

昨今のメルマガのデザインセンスの高さは
HTMLメール以上のものを醸しだすこともある。

そしてiモードEZwebなどの、
ガラパゴス化されたネットワークサービスの誕生である。

小中学生の、
これらサービスへの依存度は激しい。

それを確実に身体化している世代が、
10代の中で醸成されている。

これら世代への開拓の糸口がなければ、
iPhoneが文化として定着することは難しいのではないだろうか。



メール文化がこれほどまでに肥大化している以上、
ボタンへの依存も強い。

電話やゲームには、
さほどボタンの重要性はないが、
メールには、大いにある。



みなが、iPhoneによる文字打ちに慣れるか、
それとも、ボタンへ回帰するか、
それが大きな分かれ道なのではないだろうか。


もしくは、
iPhoneもガラ携も、という人もいる。



本当に、今面白い時代だと思う。

どんどん生まれる文化が、
生まれは消えていく時代だと思う。
もしくは、
それがわかりやすく可視化されている時代である。


Twitterにしろ、USTにしろ、iPhoneにしろ、
そして紙の書籍にしろ、
これから、どうなっていくのか。

これを見ずして、
今の時代を楽しめないような気がする。

グーグルリーダーで一日100以上のブログを容易にオーガナイズできる時代、
世界が動いていくのを感じられるような気がする。

民主党の動き、ITメディアの動き、口蹄疫の動きなど、
みなが思い思いに口々に叫ぶのが、
文字や映像として氾濫している。

その波に乗るも乗らないも自由だし、
乗らない生き方も魅力的だけれども、
乗る生き方もまた同様に刺激的だと思う。

新しいもの好きにとっては、
これ以上に無い面白い時代だな,と思う。
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# by shinya_express | 2010-06-12 02:49

教育学の授業で、
小中学生の国語能力に関する講義がある。


国語能力なんて、たいして重要じゃないっしょ
と思っていたのだが、、、


前言撤回。





めっちゃ大事なんだと思った。



その時期に言語形成というか論理形成できなければ、
それ以降の論理的思考に悩まされるんだと思う。





けど、小学校で、論理なんて習ってないしー
とかいうのも正直なところ。

オレ国語できなかったけど、
論理的思考は身についたんだけどなー
とか思ってた。



けどけど、
いやいや、意外と、小中の国語の試験問題は、
いま見てみると奥深い。


無意識のうちに、読解力は鍛えられていて、
その結果、複雑な論理構成を理解できるようになっていくんだと実感。

この傍線部の意味は?的なことが、
かなり重要なんだと実感したわけです。



いまの大学生を見てみたときに、
このレベルをどんどん複雑化していったときに、
どの部分で躓いてしまったのか見ることが、
結構重要なんだと思う。

ロジカル・シンキング的言葉で流行している論理的思考ではなく、
日本語能力をもととした、総合的理解力は、
やっぱり小学校高学年からの国語で、
形成されていくんだな、と思った次第なのです。







というわけで、授業で取り上げた問題などを、
どんどんブログにアップしていこうかと思います。



めっちゃ簡単なのですが、
そうやって形成される「何か」を
感じ取っていただければと思います。
てか、たまに結構難しい・・・。

問題・答え
という形で、ちょくちょくアップするので、
よかったらやってみてくださいな☆




例えば、こんな感じ、


「学校の裏の池には、カエルがいる。
そこにあそびにいこう。」

問題:下線部は、どこ?




答え:学校の裏の池




まぁ簡単すぎるのだが、
この指示語の組み合わせによって、
文章構造はできているわけです。


しかしながら、この問題の基礎となる言語能力もある。

それが文法なるものだ。


そこ=池

なんだけど、
どこの池?

裏の。


どこの裏?

学校の。



という名詞を修飾する「形容詞」
を理解せねばならない。


それに悩まされる小中学生も多いはず。





子供たちにどのようにして
「正しい」教育を施すか
ってのは、かなり難しい。


それがわからず、
もはや塾講師は無理だな
って思ったのも事実。





英語や数学が問題視されがちなこのご時世、
国語教育の大事さを実感したのでした。





皆さんの論理的思考形成は、
何によって獲得できたと思いますか?



ズッコケ三人組?
伝記シリーズ?
シャーロック・ホームズ?
図鑑?
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# by shinya_express | 2010-06-05 13:20
英語をちゃんと身につけようテンションは、
まだつづいているため、ライティングもやろうかと思うのであるのである。


というわけで、英語ブログをやります。

が、

三日坊主になるのは嫌なので、
おぉー続いてきたなと思ったら、
公開しちゃおうかと思います。

数回英語で投稿したブログが実は存在するので、
そちらを再開しちゃおうかと思っております。


近日公開!的な。
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# by shinya_express | 2010-06-04 15:43
iPadを買っちゃうと、
この愛着&カスタマイズ最強な
MacBookProくんを使わなくなってしまいそうで怖い。

なんか浮気的な。

前PCのVAIOはもはやホコリまみれ。




やっぱ、iPadには手を出さないぞ><
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# by shinya_express | 2010-06-03 16:08