最近の問題意識を列挙していきます。




● 『はこ』という概念への思索


『はこ』というものを使って世界を見ているといろいろ見えてくる。

それは『系』という概念へも昇華できる。



そうやって、学問とか音楽とか組織とか芸術とかを

見てみると外部と内部が明確に分けられ、

そこに動きが見えてくる。


ダイナミクスというもの。



思いっきり右脳を用いた分析方法だと思う。



右脳を駆使したらいろいろラク。

左脳だけだと言語に妨害されちゃうから。


そんなわけで、『はこ』にハマリ中。。。



● 脳の外部化もしくは外部記憶装置

二つ目は、はこから派生した概念。

『攻殻機動隊』にて多用される用語でもある「外部記憶装置」。


人間は、なぜ音楽を作れるのか?なぜ鉛筆という形状のものを作ったのか?
なぜ自然を排除し、都市を建設するのか?

これらのことは、すべて人間の脳から外部化されたものだ。

なぜ脳にはこのようなことがプログラミングされているのだろうか?


養老猛は都市のことを脳化と呼ぶ。


以前、六本木ヒルズの展望フロアから夜景を見たことがある。

そのとき大通りを大量の車が絶え間なく走っていた。

大量に光を発するビル群からビル群へ、赤いブレーキランプを発する車が
何百台と連なり、走っていく。

人工的な光のみがその存在をわれわれ人間に誇示し
そのたの物質は闇に消え、その存在は無いものに等しい。

こんな夜景をみて感じたのは

この光景は人間の内部なのではないかと。


赤い血が体内に流れ、さまざまな情報やエネルギーを全身へと供給する。

ビル群において生産された情報
その情報を運ぶ「人間」という物質が
時間とともに、移動し東京のみならず関東全域へ向けて移動する。

この両者が重ねあったときなんとなく怖さを感じた。

人間の中の世界が、人間外部の世界へと模写される。

人間という映写機を通して写し出された映像がこの世界なんだと。


なんかプラトンみたい?



人間の内に宇宙があり、人間の外に宇宙がある。



こんなことを考えてる今日この頃。



● 音楽というものの機能

音楽って何だろうってのも最近の問題意識。


オレの中で音楽は2種類ある。

①音楽のみで一つの完結した世界を表現しているもの

②今の3次元の世界に深さを与えるもの



たとえばクラシック音楽は①で、
BGMや映画音楽というものは②だと思う。

①で好きなのはブラームスの交響曲第一番。
これは一冊の小説を読んでいるような完結した世界を表現しているように感じる。
45分ほどの間に、今の世界とは違う世界に浸ることができる。

②は、いろいろあるが、思い出深いのは
東京ミッドタウンの、ある和物の雑貨屋さんにて。
お店は和物を中心に並べられており、
そこにはベッドや棚といった家具も多い。
そのため、商品だけでも独特の雰囲気を作り出しており
居間を模倣した空間もある。

そこに音楽が流れ出した。

一音のキレイな音がしばらく続き、そして
音階を少しずつ駆け上がる。
音楽には詳しくないのでここでは表現できないが
シンプルな音楽だった。

これはいまになって理性によって書いていることだが
そこにいたときには衝撃を感じた。
3次元のその空間がいっきにn次元へと膨張し、
その店が新たな世界へと変貌を遂げた。
肉体という束縛から解き放たれ意識のみが大きな宇宙へと解放されたようだった。

このときその店でひとつの完結した世界が生まれた。


この経験から音楽というものの可能性を感じた。


音楽って何だろう?

まだまだ考えなきゃ表現できない。。。



茂木健一郎の「音楽を『考える』」ってのを読んだ。

音楽のみならず、
少しでも表現することを渇望する人は読むべき本。
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by shinya_express | 2008-02-01 17:10
えっとーこの文章は二つのことを前提にしています。

① 「涼宮ハルヒの憂鬱」を見たことがある。
② 『はこ』論の投稿を読んだ。

以上、二点をクリアした人は読んでね☆


ハルヒがいる普通の世界も一つの「はこ」。
「はこ」の抽象度を高め、そこをひとつの「系」だと考えると分かりやすい。
系の中というのは、恒常性を維持することで、その系を保っているのだが、
そのためにはエントロピー、つまり複雑さというものを多くためすぎてはいけない。
そこのエントロピーが増大したときに、どこへ排出されるか。
ハルヒの世界では、それは内部の内部、つまり閉鎖空間という外部へと
排出されることによって、その世界のエントロピーの増大を防いでいる。

ハルヒのいる世界において「憂鬱」及び「退屈」というエントロピーが増大すると
閉鎖空間という外部へと排出され、それをハルヒによって能力を授かった者たちが処理する。

こういう連鎖が行われることによって、世界は恒常性を維持している。
それを維持できなかったとき、ハルヒの手によって
新たな系が作り出され、世界は再び創造されることになる。
今までの物理法則など適用できない、新たな世界が存在してしまう。

『はこ』論から見る「涼宮ハルヒの憂鬱」でした。

いかがでしょう???


参考文献は「生物と無生物のあいだ」でした(笑)


生物学とアニメのリンクは新しくない??



んじゃまたー
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by shinya_express | 2008-01-28 00:47
最近、考えてるのは『はこ』について。

難しくてなかなか表現することをためらってます・・・

時間をかけて書いていきます。



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『はこ』という表象への省察 ―その機能と存在―


『はこ』とは何か、
という定義をまずは明確にすることにする。
ここでは、『はこ』とは、

①何か物体を納めることができるものであり
②外界と空間を分かつものである」と定義することにする。

われわれは、『はこ』を手にしたとき、何をすることができるだろうか。

まずは、物をしまうことができる。
そして、ある程度の重さまでは、しまった複数のものを一度に運ぶことができる。
さらには、中の物をさまざまな状況下で取り出すことができる。
この機能に関して、以下の例をみていくことにする。

NHKの某芸術番組で紹介されたため、詳しくは覚えていないが、

箱に数枚の絵画を入れるという作品だった。
その作品にはどのような機能があるのかというと、


①持ち運ぶことができる
②いろいろな場所で中の絵画を見ることができる
③絵画の順序を変えて、作品を楽しむことができる

というものだった。
①に関しては、箱というものの定義にある機能そのものである。

②においては、絵というもの、ひいては芸術作品というもののある特徴を垣間見ることができる。

それは、ある作品を見ている状況というものがその作品に与える影響は絶大である、
ということである。

美術館で見るときにはその絵のみに集中し、
自宅で見るときは、BGMがかかっているかもしれない。
カフェで友達と見れば別の視点が獲得できるかもしれない。

このように見ている環境を含めて、それは「作品」なのである。

したがって、「絵を持ち運ぶ」ということは、
様々な状況でその絵を堪能することができるという機能を内包している。
そこに、壁に立てかけられた絵画とは違う要素が存在する。

そして、③に関しても②に近い特徴が浮き彫りになる。
絵を含む芸術作品というものは、
環境などの外部要素を含めて、
それが「作品」であるということは先述した。

それは、作品を見る順番も例外ではない。

ピカソを見た後にモネを見るのと、
ダヴィンチを見た後にモネを見る場合では、
モネの味わい方は確実に異なるだろう。

それは、音楽についても同様である。

たとえば、美術館というものは、その順番を固定化した空間ということができる。

そこには絶対的に恣意性が含まれてしまう。
その恣意性を排除するために、
この作品においては、箱に入れ順序を変えることができるのである。



以上、三点が、この作品の特徴となっている。

ちなみに中に入っている絵はモナリザなどの有名絵画が数点入っていたと記憶している。





この作品から、『はこ』というものの本質が見えてくる。

『はこ』というものは、内部に納めたものに対して、
様々な外的影響を与える媒体となるのである。

それは、人間の移動によって環境を変えることかもしれないし、
中の物の取り出す順序を変えることかもしれない。

『はこ』という物体は内部環境の固定化と外部環境及び外的要因の流動化によってその存在を確立している。


『はこ』の定義の
「①物を納める」という機能から、
以上のような帰結を生むことができた。


以上の結論を様々な事象に応用することができる。

例えば、今電車に乗ればみんなが手にしているiPodである。
音楽という作品を何千曲もその『はこ』の中に納め、いかなる状況下でも聴くことができる。

その順序も聴き手の思いのままである。
自転車に乗りながらクラシックを聴いたり、
カフェでロックを聴いたり、
その外部環境は千差万別である。

その外部環境も含め、それを「作品」と呼ぶのである。

否、呼ばねばならない状況が形成されているのである。


議論はそれるが、それは現代テクノロジーの功罪かもしれない。
がしかし、モーツァルトのいるところにのみ
モーツァルトの作品が存在する時代は終わりを告げ、
世界中にネットされた網の目を通して、
あらゆる芸術は同一平面上に存在するのである。

芸術家はそういう時代で、いかに表現を続けるのか。
それはカメラのデジタル化にも言える。

美術館に行かなければ写真作品を見られない時代は過去のものとなり、
パソコンという『はこ』を通して、
天文学的数の写真に目を通すことができるのである。

ここでは、『はこ』という議論に的を絞るため、
芸術論へは波及しないようにするが、
芸術のデジタル化という問題も検討の余地が大いにあるようだ。




さて、『はこ』論へと戻るが、
ライブハウスを「箱」と呼ぶことを知っているだろうか。


ここにも『はこ』論をさらに展開できる要素がある。

ライブハウスはもちろん持ち運ぶことはできない。
しかし、内部へと流入する外的要因の流動化は激しい。

それは、そこで演奏するバンドとそれを聴きにくる聴衆である。
そこの箱の内装やスタッフはある程度固定化されているが、
そこで演奏するバンドは毎回異なり、聴衆が同じということはまずありえない。

演奏する舞台装置のみ維持したまま、
その箱はいろいろな作品を生み出していく。
もう二度と生まれない、唯一無二の作品が毎回のライブで現出し、
そして消えていく。

いくらデジタル化し、DVD化しても、
その外的影響のすべてをデジタルへと還元することはできない。
バンドの熱い叫び、
興奮のあまり現れるミス、
聴衆の熱気、
人々の汗のにおい、
そして自分の感動など、
そこにはデジタルでは納めることができない要因が多数存在し、
一つの作品を形成している。


ここに『はこ』という存在のもう一つの要因が特筆できる。

それは内部空間の創出である。


ある一定の物理空間を強固な壁によって生み出し、
外部とは異なる閉鎖空間を生み出す。

そして、その空間のみで完結した世界が構築されるのである。

このライブハウスの例より、

『はこ』の定義の二つ目である
「②外界と空間を分かつ」という点をより具体的に見ることができた。


それでは、『はこ』という概念の抽象度を高め、
さらに様々な事象へと応用していくことにする。



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さて抽象度を高めるとどんな議論ができるのか。。。
そのためには、定義の再考が不可欠になるので、
今はまだ書けないです・・・
「はこ」ってムズイね。

気が向いたら、先を書きます!!!

まだ、結末が見えてこないので、ちょっと暗中模索です。

なかなか読みにくいでしょ???笑

ざまーみろ☆☆☆


ちなみに、閉鎖空間はハルヒから笑

別の投稿でハルヒ書くから、読みたい人は読んでね!



ではー◎◎◎
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by shinya_express | 2008-01-28 00:33