【映画】『ヒックとドラゴン』はすごい!
なぜ、人はドラゴンに乗りたがるのだろうか。
そこにあるのは、夢やロマン、所有欲や支配欲だけなのだろうか。
この『ヒックとドラゴン』では、
人とドラゴンの関係がすごく丹念に描かれている。
ドラゴン映画と言えば、
なんか子どもぽかったり、魔法使いものだと思ったり、
安っぽいファンタジーだと思ってしまうかもしれない。
けど、この映画はそれらに該当しない。
もちろん子どもも楽しめるのだけれど、
もはや世界の酸いも甘いも経験した大人こそ、この映画のテーマを実感できる。
ドラゴンと人間の間には、種族の違いが存在する。
その間には越えられない壁がある。
だってお互いは意思疎通できないし、
ドラゴンの大きさは、あまりに人間の生活空間とは相容れない。
その「偏見」から、人はドラゴンを殺すこと、しか考えなくなるし、
ドラゴンも殺される前に殺そうとする。
そんな世界の話。
バイキングの海賊たちがドラゴンと争う世界で、
ドラゴンを殺すことこそ、大人への仲間入りであり、
一人前のバイキングとしての証となる。
その世界で、主人公ヒックは、とある日、
怪我をしたドラゴンに出会う。
殺すチャンスだと思ったヒックだが、
そこでそのドラゴンを助けてしまう。
ドラゴンは人を襲う、と信じられていたが、
そのときドラゴンはヒックを襲わず、その場を離れる。
気になったヒックは、そのドラゴンを探しに行く。
そこにいたのは、尾ひれを損傷し、
うまく飛べなくなったドラゴンだった。
そのドラゴンとヒックが打ち解けあっていく物語が、
この『ヒックとドラゴン』なのである。
そこで、多くの人は思うだろう。
単なる未知との遭遇モノか、と。
たしかに、要約してしまえば、
異種族間の相互理解を描いたものである。
けれど、そのテーマ性以上に、
「描き方」がこの映画のキモとなる。
言語を持たないドラゴンといかに通じ合っていくか、
「理解」が難しいからこそ、
態度で示していかなければならないヒックの努力。
言語では処理できない、お互いの空気感は、
観客にも伝播し、必死にヒックと自分を同一視してしまう。
それは、『アバター』で描かれた異種族間の意思疎通以上のものがある。
アバターでは、人間の言葉を操り、
そこには言語による介在が存在した。
けれど、ヒックとドラゴンの間に、その言語は存在しない。
だから、動くしか無い、態度で示すしか無い。
その必死さこそが、まさに異文化理解の証となり、
ドラゴンは少しずつヒックに心を許していくのである。
その過程で、ヒックはドラゴンに乗らざるをえない状況が生じる。
そこには、ヒックの夢やロマン、支配欲ではなく、
せざるを得ないプロセスがあるからこそ、
ドラゴンの上に乗るという結果に至る。
そこに、この映画の丁寧さが伺い知れる。
単に下僕、家畜として扱うのではなく、
必然性を描くことで、そこに納得を産み、
ドラゴンと人間の対等性が担保されるのである。
その作り手の丁寧さ、優しさが、
ドラゴンへの敬意、ひいては異種族への敬意に思われた。
お互い対等に助けあうというのは、
とてつもなく困難なことである。
そこには、上下や優劣が伴ってしまう。
力はドラゴンが有し、頭脳は人間が有す。
頭脳で優ってきた人間だけれども、
それを傲慢に思わないことにこそ人間の可能性が存在する。
異文化や異種族のメタファーとしてのドラゴンに対して、
自分たちはいかに接すればいいのか。
そんなことを考えさせてくれるのが、この映画なのである。
そして、ラストシーン。
そこでは、子ども映画には起こりえないすごい結末が描かれる。
そのシーンこそ、私たち大人が受け入れなければならないことかもしれない。
それを乗り越え、そして成長することこそ、
大人になる、ということなのかもしれない。
そこにあるのは、夢やロマン、所有欲や支配欲だけなのだろうか。
この『ヒックとドラゴン』では、
人とドラゴンの関係がすごく丹念に描かれている。
ドラゴン映画と言えば、
なんか子どもぽかったり、魔法使いものだと思ったり、
安っぽいファンタジーだと思ってしまうかもしれない。
けど、この映画はそれらに該当しない。
もちろん子どもも楽しめるのだけれど、
もはや世界の酸いも甘いも経験した大人こそ、この映画のテーマを実感できる。
ドラゴンと人間の間には、種族の違いが存在する。
その間には越えられない壁がある。
だってお互いは意思疎通できないし、
ドラゴンの大きさは、あまりに人間の生活空間とは相容れない。
その「偏見」から、人はドラゴンを殺すこと、しか考えなくなるし、
ドラゴンも殺される前に殺そうとする。
そんな世界の話。
バイキングの海賊たちがドラゴンと争う世界で、
ドラゴンを殺すことこそ、大人への仲間入りであり、
一人前のバイキングとしての証となる。
その世界で、主人公ヒックは、とある日、
怪我をしたドラゴンに出会う。
殺すチャンスだと思ったヒックだが、
そこでそのドラゴンを助けてしまう。
ドラゴンは人を襲う、と信じられていたが、
そのときドラゴンはヒックを襲わず、その場を離れる。
気になったヒックは、そのドラゴンを探しに行く。
そこにいたのは、尾ひれを損傷し、
うまく飛べなくなったドラゴンだった。
そのドラゴンとヒックが打ち解けあっていく物語が、
この『ヒックとドラゴン』なのである。
そこで、多くの人は思うだろう。
単なる未知との遭遇モノか、と。
たしかに、要約してしまえば、
異種族間の相互理解を描いたものである。
けれど、そのテーマ性以上に、
「描き方」がこの映画のキモとなる。
言語を持たないドラゴンといかに通じ合っていくか、
「理解」が難しいからこそ、
態度で示していかなければならないヒックの努力。
言語では処理できない、お互いの空気感は、
観客にも伝播し、必死にヒックと自分を同一視してしまう。
それは、『アバター』で描かれた異種族間の意思疎通以上のものがある。
アバターでは、人間の言葉を操り、
そこには言語による介在が存在した。
けれど、ヒックとドラゴンの間に、その言語は存在しない。
だから、動くしか無い、態度で示すしか無い。
その必死さこそが、まさに異文化理解の証となり、
ドラゴンは少しずつヒックに心を許していくのである。
その過程で、ヒックはドラゴンに乗らざるをえない状況が生じる。
そこには、ヒックの夢やロマン、支配欲ではなく、
せざるを得ないプロセスがあるからこそ、
ドラゴンの上に乗るという結果に至る。
そこに、この映画の丁寧さが伺い知れる。
単に下僕、家畜として扱うのではなく、
必然性を描くことで、そこに納得を産み、
ドラゴンと人間の対等性が担保されるのである。
その作り手の丁寧さ、優しさが、
ドラゴンへの敬意、ひいては異種族への敬意に思われた。
お互い対等に助けあうというのは、
とてつもなく困難なことである。
そこには、上下や優劣が伴ってしまう。
力はドラゴンが有し、頭脳は人間が有す。
頭脳で優ってきた人間だけれども、
それを傲慢に思わないことにこそ人間の可能性が存在する。
異文化や異種族のメタファーとしてのドラゴンに対して、
自分たちはいかに接すればいいのか。
そんなことを考えさせてくれるのが、この映画なのである。
そして、ラストシーン。
そこでは、子ども映画には起こりえないすごい結末が描かれる。
そのシーンこそ、私たち大人が受け入れなければならないことかもしれない。
それを乗り越え、そして成長することこそ、
大人になる、ということなのかもしれない。
by shinya_express
| 2010-11-19 18:55